岩手師範学校入試のエピソード Episode
当時の岩手師範学校   昭和18年3月
  受験生の面接 (高橋 校長、荒木田 男子部長、斉藤 配属将校、本崎 生徒課長、横田 光八 舎監長)
  ここの学校の外にどこか受験しているかと尋ねられ
「よその学校に受験をしていないけれども、茨城県石岡にある全日本飛行協会中央訓練所に入所をしたいままで、
岩手師範学校 <拡大写真>    願書を出しています。」答えた。
「それでは、そちらにも採れ、滑空訓練所にも採れたらどうすねかと」 尋ねられた。
「そのときは、今年は滑空訓練所の方に行かせてもらいます。来年改めて受験させてもらいます。 と答えた。

 結局、指導者としての年齢が20歳以前で若いということで、訓練所に入所することができなかった。

 後日、師範学校に入学してから、8月に地方滑空訓練所が岩手にも開設されることになり、学生の身分のままで入所することになった。
「君は滑空訓練することを前提にして、入学した経緯があるからなあ」 学校からも、快く許可された
学校でも、配属将校からも特技訓練(航空)の指導者を必要としていた。
 中級滑空機操縦士指導者講習会
 <当時の新聞記事

大日本飛行協会本部、岩手県支部共催
場所:第二県地方滑空訓練所(岩手県立六原道場に隣接する11万坪)
六原滑空訓練所が在った辺りのMAP 六原道場にあった青年師範学校門柱 滑空訓練 1ブロック15hの防風林に囲まれた畑を1人1aに区画してプロジェクト耕作をしている風景
六原の滑空訓練所の
あったあたりのMAP
昭和19年4月の
岩手青年師範学校の門柱
昭和19年
六原の滑空訓練
昭和14年頃の六原農場
下村氏もこういう風景に遭遇したでしょうか
<拡大写真>説明は写真の上にカーソルを

昭和18年8月20日
中級滑空機操縦士指導者養成講習会に参加

  滑空士と滑空教師
そのころ資格は滑空士の資格は、初級旗の訓練生が所定の訓練を経て三級滑空士となる。
次は二級、一級、特級滑空士と進む。
二級滑空士は三級滑空士を養成することが出来き、三級滑空教師となる。
つまり滑空教師の資格を取れば、それぞれ一級下の滑空士を指導することができるシステム。


1週間ばかりたった日、1人の紳士が私たちの訓練の様子を見ていた人がいた。
午後の訓練が終わったときだった。
「私は今日青森県から岩手県に着いた。青森の訓練場は岩手の訓練場より遅く訓練が始まったが、機材がそろっているため
岩手を追い越して訓練をしている。
青森では技量の悪いのは、どんどん止めさせて帰してやった。
そのため青森では訓練生の人数が少なくなったので、こちらの訓練場より補充することになった。
そこで午前中から君らには黙って技量認定をした。
青森の進んでいる訓練に、追い付けている者として、次の3人を選定した。
下村、鈴木、木南の3人だ。
ただちに荷物をとりまとめ、青森市油川にきたください。ということであった。
次の日の早朝、六原滑空訓練所を出発し、昼ごろ青森市油川の飛行場に着いた
格納庫の前で挨拶後、主任教官がいきなり、
午後の練習始めに、3人の技量認定試験を実施する。検定結果が悪かったら六原に帰ってもらう」ということであった。
六原から回されて青森に来て、こんなテストをされるとは夢にも思っていなかった3人のショックは大きかった。
特にここの教官は厳しい教官であると聞いていたし、技量が悪く帰されたものが多く、それで人数が不足になったと聞いていた。
結果は下村1人が合格で、他の2人は不合格であったが「もう一度おねがいします」と申して出て2回目の検定を受け、
鈴木はやっと合格したが、木南は不合格でであった。
合格した2人「私たちの搭乗回数を減らしてもいいから、木南君にもう一度検定を受けさせてほしい」と申し出た。
「よし、もう一度だけだぞ」と言って許可され、三度目の検定で、やっと六原組3人が合格し、新しい仲間となった。
青森・油川の飛行場 記号手(青森・油川の飛行場で) 青森・油川の飛行場で(滑空士の全員) 青森・油川のリンゴ園の小屋で
青森・油川の飛行場関係写真   <拡大写真>
仙台の飛行場
 
 仙台飛行場         10月中旬に、仙台の航空機乗員養成所で、訓練を継続してやることになって、青森から仙台に移動した。

  二級滑空士試験検定日

仙台市内より60万坪の宮城野原、航空機乗員養成所
検定滑空が終わって講評となり「検定の結果、全員合格、追って官報で公示する」 ということで、
「いろいろと条件の悪い中で、良く訓練をして、立派な技量を身につけた。おめでとう」 ということであった。
「即日 全員合格」という発表は今までにないことだと、私たちの教官が話しておられた。

仙台の飛行場で二級滑空士の検定に合格した私は、訓練の出発点である懐かしい六原の仲間へ、
即日合格のお知らせと、お礼の挨拶に立ち寄った。

  中級機の訓練が終わって帰校する
約100日のを訓練終わって学校に帰ってきた。
配属将校の斉藤少佐より「学校では全校生徒を重機関銃班、通信班、戦車班、航空班の4班に分け、特技訓練をすることになった。
君には航空班として、滑空訓練の指導を担当してもらうことになっている。滑空機を購入することにもなっており、初級滑空機が文部省より
近く本校にも来ることになっている」という話だった。
数日たって学校へ初級滑空機の配当があった。教材用である。機種は文部省式でおった。
早速班を編成し練習、訓練を開始した。
昔の雫石駅
現在の雫石駅  航空班の訓練は、鶯宿温泉軍人寮に合宿して滑空訓練を実施することになった。
 盛岡から雫石駅まで汽車で行き、雫石駅から鶯宿まで徒歩である。、
 行軍は野原を走る吹雪の中、前の人もみえないほどの大雪の日であった。
現在の雫石駅
岩手県道172号線  あまり民家のない広々とした開墾地、白一色の田舎道を鶯宿を目指して行軍した。
 統導は中村中尉、細野軍曹の2人が学校職員として責任をもって行った。
 訓練全体の責任者と滑空訓練の指導は、本科1年生の私、二級滑空士であ。
 訓練生の人数は6,70人でなかったと思うとが、あるいはもっと多かったかもしれない。
鶯宿方面に向かっての現在の道路

< 耐寒雪中の滑空訓練記(新岩手日報の新聞記事>
  母校岩手中学滑空部長の訓練指導
昭和19年何月のことであったか失念してしまったが岩手師範2年のときである。
母校岩手中学校の牟岐先生から、滑空訓練の査閲があるけれども、訓練をしてくれる指導者がいなくて困っている。
生徒の指導に来てくれないかと電話連絡を受けた。
「すぐ、指導にまいのます」と返事をした。
期間は1週間、高度3メートルぐらい、飛べる子供を指導しますと約束した。
 牟岐 風Y先生と
下村 幸男氏
(右側 体操部時代)