旧制 岩手中学 滑空部(グライダー部)の歴史の一部を 下村 幸男(旧13回生 昭和18年卒)の
       「グライダーの青春譜」の一部を紹介することで知って戴ければ幸いです。



グライダー夏期講習会
  皇紀2600年(昭和15年 1940年)記念グライダー講習会が、帝国飛行協会、グライダー研究会
  主催で開催された。
  岩中生15人で1班がが編成された。
  東北本線の現在青山踏切から徒歩で20分のところに大日本飛行協会の格納庫がある。
                               (現在の森永製菓から4・500mの所にあった。)        
  格納庫には初級機2機、中級機1機が格納されていた。
  教官は鎌田 禎(旧12回生 昭和17年卒) 早くから練習していて私を指導してくれた。

  ■ 皇紀2600年奉祝グライダー競技会参加
    15人で1チームを編成する人数がいたので、岩中生だけで1チームを編成し参加した。
    岩中生の参加人数19名で一番多かった。
  ■ 正式にグライダー部を作り学校に認めてもらう
    1チームは指導者以外、15人が定員である。
    夏期講習会でグライダーの味を覚えた私たちは続けてやろうと話し合った。
     しかし、それぞれの運動部に所属している仲間は、半分も集まることが出来なかった。
     そこで1,2年生にも呼びかけ15,6名を集めることができ練習が始まった。
     当時はグライダースポーツと言っていたが、昭和17年ごろから滑空訓練と変わった。
    鎌田 禎君を最上級生として、正式にグライダーを作り学校に交渉し認めてもらう。

上級生で指導者の鎌田 禎君 岩手中学滑空部員達(昭和15年) 大日本飛行協会の格納庫の前で(昭和17年2月) 昭和19年4月21日の新聞から
旧制 岩手中学滑空部 <拡大写真>

 
  ■
鶯宿滑空場建設に岩中滑空部勤労奉で参加
    昭和16年、中学4年夏、鶯宿に滑空場を作ることになって、地元の青年団の人たちが勤労奉仕をしているという話を聞いた。
    私たち岩中滑空部も勤労奉仕に行こうということになった。
    私たちも利用することができるのだからと、張り切って盛岡を出発した。
    私たちの作業予定は、格納庫を建てる予定地の整地作業だった。
    宿舎は青山旅館(現青山荘)の裏手に旧軍人寮というのがあって、かやぶきの古い民家だったように覚えている。
    何泊したか覚えていないが、二泊したように思う。

鶯宿にあった軍人寮 軍軍人寮の手前にある昔の皇軍橋
軍人寮 昔の皇軍橋 鶯宿滑空訓練所場の
立札
昭和16年10月7日の
新聞記事
架け替え前の皇軍橋 現在の皇軍橋 2010年の皇軍橋
架け替え前の皇軍橋 現在の皇軍橋 2010年の皇軍橋
左側 青山旅館 右側 川口旅館 左側 川口旅館 右側 加賀助実家 左側 川口旅館  右側ホテル加賀助 現在の川口旅館とホテル加賀助 昔と現在の比較写真
戦前の鶯宿温泉の中心旅館 昭和時代の川口旅館
とホテル加賀助
現在の川口旅館
とホテル加賀助
昔と現在の比較写真

鶯宿滑空訓練所 鶯宿滑空訓練所の
練習機
鶯宿滑空訓練所での
訓練生の集合写真
鶯宿滑空訓練所での
訓練生
この4点の写真は雫石在住の細川 アヤさん提供


鶯宿滑空訓練所関連

高下  忠氏
徳田 安蔵氏
新岩手日報 昭和16年9月3日 の記事 岩手日報 昭和17年1月8日 の記事
MAPを拡大してご覧ください 雫石戦時体験記より
(雫石教育委員会より了解を得て掲載)
新聞記事

昭和18年9月15日の新聞記事
昭和19年4月21日の新聞記事

  
  ■
鶯宿滑空場の開所式が開催
    岩中生が勤労奉仕をし整備した所に立派な格納庫が建っていた。
    岩中、盛商、盛工の3校の滑空部と御所村周辺の青年学校の生徒が参加して滑空査閲が行われた。
    査閲官は弘前連隊の間山滑空中尉であった。
    この頃になってグライダースポーツは軍事教練となって、滑空訓練と呼ぶようになった。
    まだ、滑空訓練教程教本が草案の段階であったが、私たちは手に入れることができた。
   岩中は軍事教練のの優秀校であったので各動作が厳格であり動作が機敏であった。
    査閲終了後、総評を受けた。岩手中学校は最優秀校として、お褒めの言葉を頂いた。

グライダー仲間と  右端が下村 幸男 岩手中学滑空部員 着陸後、出発地点へもう一度 出発前の朝礼 グライダーの前で全員勢揃い
岩中滑空部 <拡大写真>