田村 二三(旧16回生 昭和20年卒)
 
 僕は岩手中学校滑空班に入りまして間もなく下村下村教官より乗せていただきました。
−回目は搭乗報告から何から何まで注意を受け、教官より搭乗を命ぜられ、いざ搭乗の時は何が何やら夢中になって、
もうグライダーに乗りたいという心は少しもありませんでした。
やめようかなと思いましたが、自分の希望を曲げては良心にすまぬと思いました。
 搭乗のとき「準備よし」と言うのだと教えていただき、教官「引け」の号令でゴム索を引き始めました。もう、夢中で搭乗前よりもっと
胸が響き初め何が何だか、さっぱり分からなくなった。
「放せ」の号令、その時はただ頭がぽうとしてきました。グライダーは滑り始めた。「あっ」と思った時に自分はがっちりと操縦桿を握り締め、
強い風を受け、涼しいと寒いとも気がつかなかった。
自分の体は天に持ち上げられたようであるがその時は夢中でした。
こんな感じであったことは、はっきり感じ思いつきませんでした。
二回目も一回目と同じようでした。三回、四回となってきますと、少しずつ心も沈着してきました。
教官に敬礼をし「八重樫第五十九号機操縦、課目地上滑走」。
自分の胸は、初めて乗るのであるからドキドキしてきた。いよいよグライダーはまた元の位置に運ばれ自分が乗るのである。
少しは面白くもあり、また一面には恐ろしくもあった。「カイド、ヨシ」の号令、続いて「ジュンビ、ヨシ」の号令、いよいよ自分に緊張がなぎってくる。
「ヨーイ」と言う元気な号令。
一二、一、二、だんだん歩数が増してくる。ゴム索はづんづん伸びていく。
いよいよ滑走の時は今までにないような無我夢中である。気持ち良し  以上

   1回目の感想文

  1 甲 畑山 光(旧17回生後期 昭和22年卒)

 初めて乗るのでうれしかったが、「引け」の教官の命令の時怖くなってきました。「放せ」の時はもう無我夢中でした。
少しし引いたら、すっと地上より上がったようでした。とても氣持ち良かったことは、だれにも言われないほどでした。


  1 甲 佐々木 幸三(旧17回生前期 昭和21年卒)

 10月27日、僕は初めて岩中石桜号に乗せるといわれた時、胸がどきどきして乗るのが嫌でした。だんだん番が進むにつれ
ますます嫌になった。索長になると号令を掛けなければいけなかった。いよいよ僕の番になった。
教官に搭乗報告をし座席に着いた。もう僕の頭には恐ろしいとか、うれしいということがなかった。
準備よしの声をかけ終わると同時にへ目標に向かってゴム索が、ぐいぐい引っぱられて行く。
1歩2歩8歩となった時、教官が「放せ」と言った。地上滑走である。その前に教官が操縦桿を動かすなと言ったので動かさないでいたが、
滑走したとき僕の顔を風がすらっと過ぎ去った。その時の気持ちはどうであったかと思った時は、もう止まっていた。
ほんの一瞬であった。僕は気持ちが良かったが本当には分かない。
もっともっと高く飛びたいと思います。
  

    初めての滑空機に乗りて

  2 甲 太田代 実(旧16回生 昭和20年卒)

  初めて滑空機に乗ったのは、観武が原であった。滑空機とは
いかなる物か全然知らなかった自分には多少不安があった。しかし教官は操縦桿を動かさないようにしていると何ともないと言われたので
不安が少しなくなったが、まだまだ不安があった。ゴム索引くにつれて、だんだん体が堅くなってきた。
そしで何も考えることができなくなってきた
  動いたなと思ったら、何も分からなかった。機が止まったので、急いで教官の前にいった。
教官はいろいろ話した後で、何も分からなかったろうと言われて「ほい」と言わざるを得なかった。
それから1回1回乗ることに余裕がついてきたが、滑空機について何も知らない自分には、これからもまだまだ学ぶことが多かろう


    教練を日常化するもの
 
 1 年 鈴木 祐八郎(旧17回生後期 昭和22年卒)

  教練は、われわれが中学校を卒業してすぐ軍人となり得るようにするためにある。われわれは日本男子である以上、
必ず軍人にならなければならない。
軍人の生活は朝起きてから夜寝るまで教練である。そこには少しの私情も堕落も許されない厳しいものがある。
またその半面には親のごとき慈愛があり愛撫がある。厳たる皇軍魂はここから生まれる
立派な皇軍魂を持つ軍人となるには教練を最も日常化することに慣れなくてはならない。
滑空訓練も教練の日常化である。教官の慈愛、べまをやれば死ぬのは責任感、真剣味、才気のある服従心、教練と何ら変わるところはない。
大空の下、足をいっばい踏んばって辺呼する時、言いしれぬ快さが腹の底からこみ上げてくる。ぐっと操縦桿を握りしめ前方の目標の動きに
合わせて操楕すか時、喜びをあじわう時、不安全な機体に乗り必死の努力による飛行をなし遂に墜死せ幾多の先人を思い起こさなければ
ならない。
  レーンの碑に日「我等此處に眠る。飛行士は自らの力によりて勝利者となりき。されど国民よ飛翔せよしとある。
国民全部が飛翔しなくてはならない。

    空だ男の行く所
  
  第4学年 甲組 佐藤 和郎(旧14回生 昭和19年卒)

 歌にもある通り空は男の行く所である、我等男子として生を受けたなら、憧れの大空へ飛出して行くのだ
あの大空へ、空は男の生命なり、空は男の故郷なり 空は広い あの大空無限に広い、空は火屋にも太陽にも、通じて居る、
此の大空を制破したら !、 やろう やろう 地球は限りあり 空は無限なり。
 我等の先輩は空に尊い生命を捧げ、尊い血を流して土台を築き上げた、梅林しかり、南郷、加藤しかり、。
此の尊い血で築かれた大空へ我等は行く。
 我等の兄が友が先輩が、北はアリューシャンから南は赤道を越えて、オーストラリヤまで東はアメリカ大陸から西はインドまで、
幾千幾万浬、密雲縫って吹雪きを越えて、海上すれすれに活躍して居るのだ。轟沈、撃沈、撃破、大和魂を出し大戦巣必勝を以て
戦って居るのだ。我等もこの大戦果に負けず大空の第二陣を固めよう。
 グライダーは、空の第2陣だ スポーツにあらず
 我等は空の第2陣としてグライダー、否、滑空機によって訓練を行い精神を練り、以て国に報ずる基を修めるのだ、滑空訓練は精神的に
軍事教練と同じだ。
訓練中は真面目にやると言う事を念頭に置いて行うべきだ、近き将来は、大空を操縦桿を握り締めて、我等は行く、父の兄の友の偉業を
受け継いで、我等大空を行く。

    岩中C・・・415号 “岩中石桜報国号%居謫記
 
   教官 下村 幸男(旧13回生 昭和18年卒)
  第1回目 曳行歩数15歩 課目 地上滑走
          大体にして良し、方向舵踏むな
  第2回目 曳行歩数 20歩 課目 地上滑走
          高度を0・5米位取って教官より気持ちを聞かれる、
          着陸の際桿を引く(教えぬ事はやるな)
  第3回目 曳行歩数 15歩 課目 地上滑走
          傾斜修正を確実にやれ、方向舵を踏むな
  第4回目 曳行歩数 20歩 課目 地上滑走
          方向舵を踏むな、傾斜修正がやや遅れ気味だ
  第5回目 曳行歩数 20歩 課目 地上滑走
        高度を取る修正が遅い、操縦梓ニトラールから動かすなと言われた
         H 1米
  第6回目 曳行歩数 22歩 課目 地上滑走
          特に無いが操縦桿を前へ、高度を押さえる様にする
  第7回目 曳行歩数 22歩 課目 地上滑走
          方向舵踏んで居る、機首がそれてる、後修正良好
  第8回目 曳行歩数 25歩 課目 跳躍
         操縦桿を引くな、自然に跳躍するを引くな、自然に跳躍する様、修正は確実でよし
  第9回目 曳行歩数 28歩 課目 跳躍1M
           右傾、修正遅い、支え高度良し

このPageTopBack