観 武 ケ 原
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 観武ケ原練兵場関連碑

盛岡市の北西部に位置する青山・月が丘・みたけ地区は、戦後新しく誕生した町なみである。
いまや小都市を形成するまでに発展したこの地域には、戦時中「観武ケ原(みたけがはら)」と呼ばれた広大な練兵場があった。

盛岡と軍隊との出会いは、日露戦争以前までさかのぼる。
戊辰戦争で南部藩が幕府側につき、朝敵とされた歴史を持つ岩手県にとって、軍隊の誘致はその汚名を晴らす長年の悲願でもあった。

一方弘前の工兵隊では適当な演習地がなく不便をきたしていたところへ、営舎2棟が火災で焼失するという事変があり、盛岡への
移駐請願運動が急速に高まった。ところがこの時期露戦争が勃発し運動は一時中止となってしまう
悲願が実り弘前の工兵第八大隊(のちの工兵第八連隊) が下厨川(現青山1丁目) に移駐したのは、
日露戦争終結2年後の1908 (明治41)年だった。三カ月後には、皇太子(のちの大正天皇)を招いて特別工兵演習が
この地で行なわれ、このとき演習場となった広大な草原を、皇太子が「観武ケ原」と命名したと伝えられる。

観武原碑
左は観武ケ原開拓
25周年記念碑
みたけ3丁目城北小学校前にその由来を語る「観武原碑」がある。
高さ約3mの碑には元老山県有朋(当時枢密院議長) の撰文という次の一節がある。

「陸中□□山南麓之野会
皇太子巡遊奥羽途次臨観累日
此地元無名乃命□観武原」
                                        
碑の前面に大きな傷が走り、欠けて読めない文字がある (口の部分)
これは、1921(大正10) 年東京〜盛岡間郵便飛行がこの地で行なわれたとき、飛行機が記念碑にぶつかった
大事故によるものである。
工兵隊移駐の翌年には、騎兵第3旅団 (約2.000名)がこの地に新設され、盛岡は一躍軍都の面影を呈することとなった。

陸軍特別大演習
観武ケ原野立所跡

月が丘2丁目の盛岡少年刑務所東側には「大元帥陛下御野立所聖跡」と彫られた記念碑があ。
これは1928 (昭和3)年10月、岩手県下で大規模に行なわれた陸軍特別大演習を記念するもので、
演習は観武ケ原練兵場を中心に繰り広げられた。
野立所とは天皇の休息所のことで、碑は1932 (昭和7)年に盛岡在住の将兵等によって建てられた。

1935 (昭和10)年、第3騎兵旅団は、満州(中国東北部) へ移駐したが、旅団渡満後の跡地には、1939(昭和14)年に
盛岡陸軍予備士官学校が兵制上はじめて創設され3年間存続し多くの若者がこの地に学んだ

盛岡陸軍予備仕官
学校跡碑
また終戦までの問、歩兵独立兵団や戦車隊、通信教育隊、航空教育隊などが置かれた。
観武ケ原練兵場は騎兵・工兵の演習場から、戦車や飛行機による近代戦の演習場へと時代とともに移り変わった
しかし、終戦とともに部隊はすべて解散し、戦後は食料増産のための開拓地、
そして今は現代的な町なみに発展している。

燕航空部隊
発祥地碑
「観武原碑」は当時の位置(青山4丁目) から約1km北方に移されたが、そこには「燕航空部隊発祥地」
という新しい碑もある。
これは、観武ケ原に設置された航空隊を記念して、1995 (平成7)年に水戸陸軍航空通信学校
戦技第5期生により建てられたものだ。

 工兵第八連隊門柱

工兵第8連隊門柱
盛岡市青山1丁目にある国立病院機構盛岡病院構内に、赤レンガの門柱が残されている
これは盛岡に駐屯していた工兵第八連隊の門柱である。
この一帯は連隊の雪中練兵場跡で、1969(昭和44)年に造園され、工兵園と名づけられ、
工兵隊を記念するいくつかの碑が建てられている。
連隊の前身、工兵第8大隊が弘前から移駐したのは1908(明治41)年である。
以後盛岡の工兵隊として市民に親しまれ、1937(昭和12)年、満州牡丹江省に移駐するまで約30年間にわたって盛岡に駐屯した。
満州移駐の前年に工兵第8連隊と改称されている。
  騎兵第三旅団関連遺跡

騎兵第23連隊
通用門

工兵第8連隊門柱から北東約500百mの森永乳業(株)盛岡工場の敷地内にも、赤レンガ製の
門柱が残されている。
これは明治の末期この地に新設された騎兵第3旅団第23連隊の通用門として使われた門柱である。

騎兵第23連隊兵舎
現在森永乳業の事務所として使われている木造二階建ての建物は、かつての兵舎であり、
一階は酒保(購買部)、二階は集会所として使われてい.る。
間口約8.2m、奥行き約38.2mの建物は、明治初期に北海道開拓使建物群に採用された
アメリカのコロニアルの影響が大きいという。

覆馬場
現在日通倉庫

覆馬場
現在日通倉庫

森永乳業の西側に隣接する県営体育館の西方には、乗馬の室内訓練ができる
赤レンガ製平屋建ての覆馬場が3棟残されている。
建物は間口約24m、奥行き約49mという立派なもので、当時の航空写真には
同規模の覆馬場が5棟写っている。

覆馬場
現在日本新薬倉庫

覆馬場
現在日本新薬倉庫
同様の建物は、北海道旭川市にも残っており、冬期間屋外馬場が使えない北国ならではの
施設であろう。
戦後開拓団の寮や小学校の講堂として活用されたが、
現在は民間会社の倉庫等として使われている。
騎兵第三旅団は、1909(明治42)年に下厨川(現青山2丁目) に新設された。
旅団の編成は司令部、第23連隊、第24連隊からなり、約2.000名の騎兵隊の設置を
盛岡市民大歓迎した。
1931(昭和6丁目)年、満州事変が勃発し、翌年満州国が建国されて、戦雲は一気に急を告げた。
1935(昭和10)年、第3騎兵旅団は、26年にわたる衛戊地盛岡に別れを告げ、
満州へ旅立った。
渡満後の旅団は満州国三江省の佳木斯(23連隊)、富錦(24連隊)を拠点として、満州国独立に抵抗するゲリラ兵や
中国共産党のゲリラ兵(日本では「匪賊」と呼んでいた)の討伐を主な任務として活動した。
三江省はソ連と国境を接し、治安が最も不安定な地域でゲリラ兵が頻繁に出没し、討伐隊の犠牲も多かったという。
1939(昭和14)年のノモン事件では、国境地帯の警備についたが休戦協定が成立し、直接戦闘に加わることはなかった。
このように騎兵第三旅団は大きな戦闘に参加ることがなかったため「幻の旅団」とも呼ばれた。
1945(昭和20)年2月の陸軍の改編にり、騎兵第3旅団は新設の独立歩兵大隊に改編され、36年の歴史に幕を下ろした。

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このPageは「岩手の戦争遺跡をあるく」の著者、加藤 昭雄さんの好意により了解を得て引用させていただきました。
有難うございました。