
赴任当時の広嶋英雄 |
| 日本体育会体操学校高等科(現日本体育大学=日体大)を卒業し |
| た広嶋英雄先生が昭和2年3月31日に岩手中学校に赴任して |
| きた。 |
鈴木卓苗初代校長の教育方針のもと、ラクビーを体育の正課と |
| して取り上げ指導する。 |
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| 広嶋英雄先生は学生時代ラクビーをした経験がなかった。 |
ルールブックや解説書などわざわざ東京から取り寄せて独学で |
| ラクビーの知識を覚えこんでしまった。 |
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特に「日本は武芸よって高潔(こうけつ)な武士道が養われ、イギリスではラクビーに |
| よって自制と修養を学べ」と説いた。 |
日体大出の広嶋英雄先生は、学生時代に応援団長をやっていた。また柔道3段の猛者 |
| で文もたつ先生で当時の「石桜」に沢山投稿していた。 |
初代校長鈴木卓苗は、当時栃木女子師範学校校長奉職中で命名が高く、仙台の女子 |
| 専門学校に迎えようとの動きも起こっていた。 |
| 鈴木卓苗は私学経営を辞退しようといったんは考えたが、日頃、窮屈な機械的教育に |
| あきたらずにいたところから、私学であればいっそう人性に順応して個性伸張の自由 |
| な教育を施すこともできるだろうと、その就任を決意した。 |
広嶋英雄先生談 |
| 「実践力のある、たくましい生徒に育てたい。一切の責任は校長がとるからといわれ |
| 全てのスポーツ行事は全校挙げて実施する方針をたてた。」 |
| 春はわらび取りとマラソン大会、夏は水泳と岩手山登山、秋はバスケットボールと |
| クロスカントリー、冬はラクビーとうさぎ狩 |
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| 運動具店から色々スポーツボールを購入したがラクビーボールは間に合わなかった。 |
| 後で久保庄運動具店を通じてラクビーボールをやっと10個揃えた。 |
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| 校内対抗試合、練習は近くの岩手公園グランドで行った。 |
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当時盛岡市内の高等農林、師範学校、盛岡中学、商業学校、工業学校、農学校に |
| ラクビーを勧めたが、乱暴な運動は御免こうむりたいとの返事だった。 |
当時東北にラクビー部があったのは秋田工業高校だけであった。 |
| 日体大の広嶋英雄先生の同期の長谷川先生が種をおろした。 |
| 将来定期戦を約束した。 |
| (秋田工業は大正14年創立、ラクビー部は昭和2年創部 岩手中学より1年早い) |
昭和5年、夏の暑い日の午後、軍事訓練で2年生が北上川渡河訓練後、雫石川下流で |
| 水泳中に生徒の一人が溺れ死んだ。 |
| その責任の一端を負わされる羽目となって10月に米沢興譲館中学校に去る。 |
| (広嶋英雄先生岩手中学に在籍 昭和2年3月31日〜昭和5年10月21日 約3年6ケ月) |
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| 広嶋英雄先生の経歴 |
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| 明治40年 新潟県柏崎市(旧刈羽村大塚で生まれる。 |
| 昭和2年3月 日本体育会体操学校高等科(現日本体育大学)卒業 |
| 昭和2年3月 岩手中学校に体育部長として赴任 |
| 昭和5年10月 山形・米沢興譲館中学に赴任(在籍9年間) |
| 昭和14年 大阪・浪速高等学校赴任(在籍10年間) |
昭和24年大阪大学 文武教官として赴任
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| 昭和3年 岩手中学教職員 |
昭和4年 岩手中学教職員 |
昭和5年 岩手中学教職員 |
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