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昭和27年 岩手県民体育大会 一般男子1位
盛岡クラブの一員として出場 |
<拡大写真> |
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回 想 吉川 明夫 昭和27卒(新4回生) |
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気の弱い、運動に自信のないない少年、幼少のころから兄弟の中で最も病気がちで体力の弱い |
育ちをした私です。 |
それとは対照的な兄(孝正)は、兄弟で一番の力持ちです。腕相撲の時、私が両手で挑戦してもび |
くともしないし、妹と2人で向かっても簡単に負ける始末でした。 |
(中学生の頃) |
昭和21年岩中に入学する。さて問題はクラブです。文化部に音楽とか書道などと好きなもの |
もあるが、運動部はどれをとっても上手くできそうなものがないのです。 |
兄のいる体操部には、無論入りなかったのです。 |
努力すればと考えて籠球部に籍を於くが、ボールが重いし、シュートしても網までなかなか届か |
ないのです。ずいぶん幼かったようですね。 |
同級の加藤恵は脊が高くすべてに上達が見られるし、故河村修に至ってはジャンプシュートが |
百パーセント決まるほどの成長ぶりでした。 |
(中学時代) |
さて、兄の関係で体操部の先輩が時々我が家を訪れてきます。そんな中で故杣先輩は「逆立ち |
のやり方教えるぞ」と言って両腕で体重を支えることや、逆さになった時の感じなどを教えてく |
れたものです。すぐ実行に移しては練習を積み重ね、徐々に上手くなってなってきたような気が |
しました。 |
戦後の学生改革で我が岩中も岩手高等学校と命名されたのです。 |
中学在学中に時々体操部の活動を眺めたり、自宅では兄の大会での話しを耳にしていたりしたの |
で、すばらしい体操の技術を1つでも身つけることが出来たら楽しいだろうと思い、体操部に入 |
部することにしたのでした。 |
ところで、入部した者は同期で故小森康弘と小野滋嘉の三人と少なく寂しい限りです。しかも、 |
小森は各種目をこなし、特にも鉄棒を得意とするベテランでした。だから小森との練習には無理 |
があり、逆に小野は殆と練習せず、連日下級生達との練習が続きました。 |
先ずは、上級生の練習を、見よう見まねで学ぶことからの出発です。ランニング、準備運動、 |
そして基本となるマット運動を実施し、其の後、床で倒立の練習です。下級生は倒立の練習が大 |
好きで、両足を支え貰うため私の前に集まるようになったのです。「おじちゃん見て!」といった |
子があり(達曾か故半沢かな?されとも城守だったかな)いつのまにか『おじちゃん』があだ名にな |
ったようです。 |
下級生と言えば合宿が最高でしたね、何といっても体操よりカレーライスで腕を振るうことで |
した。とても美味でした。又、上級生は、皆面倒みがよく、普通に対話できる中で多くの事を学 |
びとても有意義でした。 |
運動会での種目、組体操の練習も楽しかったです。器具を使っての種々のブリッジや、姫神山 |
よりかっこいいピラミットなどで全員の呼吸が1つになった時は感動でした。 |
さぞ壮観だったことと思います。 |
スズランの咲く頃には、恒例の姫神登山を実施したものですが、一気に駆け下りる下山が爽快。 |
でした |
(高校時代) |
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最後になりますが、事務局から届いた今回の依頼に添わず、誇示することや、選手として参加することもなかったし、 |
今は、もの忘れも激しく(80歳)催促を受けてからの投稿になってしまったことをお許し下さい。 |
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第7回 国民大会(山形) 昭和27年 |
団体徒手一般男子5位 |
(盛 一) 桑島 博、渡辺満夫、太田利彦 |
(盛 商) 吉田治夫、吉田仁彦、長岡隆一 |
(岩手高) 吉川明夫 |
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第4回県民大会 昭和27年 |
団体徒手一般男子1位 盛岡クラブ |
(盛 一) 桑島 博、渡辺満夫、太田利彦 |
(盛 商) 吉田治夫、吉田仁彦、長岡隆一 |
(岩手高) 吉川明夫 |
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第5回 東北大会(福島 ) 昭和27年 |
団体徒手一般男子1位 盛岡クラブ |
(盛 一) 桑島 博、渡辺満夫、太田利彦 |
(盛 商) 吉田治夫、吉田仁彦、長岡隆一 |
(岩手高) 吉川明夫、小森康弘 |
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