平成3年5月1日発行 記念誌寄稿より引用 |
岩手国体少年選手として 松井 保憲 |
(体操競技男子審判部長) |
中学校入学と同時に体操部に入部して以来、大学を卒業するまでの10年間、数多くの大会に出場する |
機会を得ることが出来ました。市民大会を皮切りに東北大会、インターハイ、国体、関東大学大会等で |
の大会にもそれぞれの想い出があります。中でも私が高校3年生の時に行われた「第25回岩手国体」は、 |
一層想い出深いものがあります。岩手国体に向けて中学時代から県内の強化練習に参加し、多くの同輩 |
や先輩そして素晴らしい指導者と出逢うことが出来ました。環境に恵まれた私は、高校に入学してから |
も国体強化選手に選ばれ、幾度となく合宿を経験しました。そして初めて泊った所が盛岡の本町通りに |
あった「岳洋館」でした。この旅館は当時体操をかじった人なら知らない人は無いと言われるぐらい利 |
用された旅館でした。その他盛岡四高の「志高会館」、ここは建ったばかりで特に風呂場のユニーク |
な造りには、ビックリさせられました。でもそのお陰で入浴の時間はいっも楽しい笑いが絶えませんで |
した。国体が近くなってからの合宿は、県営体育館前の青山公民館でした。この時は寝具の運搬から食 |
事の支度まで全て自分達でやりました。練習でクタクタに疲れてきてから夕食の準備です。 |
男子は配膳程度の手伝いでしたが、女子は監督の佐々木喜久子先生(旧斎藤)を中心に毎日大変だったと |
思います。又寝る時には衝立を置いて、男女の境を作ったり、今では到底考えられない合宿でした。 |
それでも練習会場は、国体のために建てられた県営体育館で、最新の器具を使って練習することが出 |
来ました。みんな最初のうちは張り切って練習したのですが、規定、自由とも練習の回数が多く手の皮 |
がむけたり筋肉痛になったりで監督が鬼のように見えました。その時の監督が菊池軍次先生と小松楯木 |
先生でした。やがて国体の前哨戦でもある東北大会が宮城県で開かれ、2位とチームとしては不本意な |
結果に終わりました。しかし私としては、総合6位、種目別の鉄棒では優勝と満足のいく試合でした。 |
あと残す試合は国体だけです。練習は以前にも増して厳しくなり、試合開近には規定の通しにポイント |
を置いて練習が多くなりました。地元国体ということで、なんとしても「予選を突破しなければ」とい |
う監督の策だったのです。そうした練習とは別に私は一抹の不安がありました。それは正選手が決まっ |
ていない事です。強化メンバーは全員で6名なので1人はレギュラーから外されるのです。怪我だけは |
絶対にしないようにと思いながら練習を終えたある日、ミーティングで突然メンバーの発表がありまし |
た。自分の名前が呼ばれるまでは不安で鼓動が高鳴って来るのがはっきりと分かりました。そして「松井」 |
と呼ばれた瞬間、飛び上がって喜びたかったのですが、なぜか無意識のうちに平静を装っていました。 |
この日発表されたメンバーは岡村、藤田、古山(盛岡一高)と細川、松井(岩手高)の5名でした。残 |
念ながら補欠となった鈴木(盛岡一高)は、翌日も変わらない練習をこなし、その姿勢には感服しました。 |
そして遂に「第25回岩手国体」の火蓋が切って落とされました。体育館の中は観客でぎっしりと埋まっ |
ています。岩手チームは順調な滑り出しで各種目とも大きなミスもなく、規定を終えました。後は予選 |
順位を待つだけです。最終班が終わり速報が出ました。少年男子は予想以上の出来映えだったので結構 |
いい順位で通過するのではないかと思っていましたが、5位で通過を決め自由への弾みをつけました。 |
翌日気を良くして臨んだ自由演技でしたが、小さなミスの連発が、結果的に9位まで順位を下げてし |
まいれた。それでもみんな精一杯戦った満足感と成就感でとても清清しい気持ちでした。 |
国体に向けて毎日厳しい練習に耐え、幸い時には励ましあい、無事国体を終えることができたのは、 |
素晴らしい仲間達と指導者のお陰と感謝しております。今後増々岩手の体操が盛んになり、各種の大会 |
において、好成績を残してくれることを願って、私の国体の想い出とします。 |