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「体操10年―青春のすべて」
村上 昇 昭和23年卒(5回生) |
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古稀・喜寿も過ぎ、今年傘寿を迎えた。平均年齢まで生きた。けだし、あとはおま |
けの人生である。人生80年を総括すると、現役社会人(公務員)としての40年をは |
さみ、「昔体操、今グランドゴルフ(15年)」である。 |
振り返って、中・高・大10年の体操は、青春のすべてであった。そしてそこで得た |
ものは知己・人脈を含め計り知れず。その後の人生の歩み、生き方をかなり左右し、か |
つその原動力となり今日に至っている。早い話が、鉄棒や跳馬の試技に入る時の気持ち、 |
姿勢・所作が囲碁(60年)を打つ時やグランドゴルフのプレーにまで現れる。 |
岩手の体操は、戦後間もなくいち早い立ち上がりを示した。中央から竹本正男、深 |
井一三(日体大スワロークラブ)、二条泰邦、古口良治早大(マルーンクラブ)といっ |
たトップクラスの選手を毎年のように招き、指導を仰いだ。おかげで岩手の体操は、昭 |
和20年代常勝秋田に肉迫し、「体操岩手」と称されるほどの成果を上げた。即ち、高 |
校女子が国体で昭和23年2位、昭和24年3位、昭和27年3位と上位を占め、昭和 |
26年水戸インターハイで盛岡市立高校が優勝した。高校男子も昭和25年愛知国体で |
3位と上位を占め、小林陵二先輩が平行棒で優勝、昭和25年横浜インターハイでは徒 |
手体操で優勝した。又昭和26年水戸インターハイで盛岡商業高校が団体体操の部で優 |
勝した。
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私の「体操10年」のハイライトを幾つか拾えば
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・昭和27年第4回県高総体での団体総合優勝(岩手高校は第1回大会で優勝して |
おり、ライバル盛岡一高を制しての3年ぶり2度目の優勝であった。ハイライトの |
トップ)。
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・昭和27年京都インターハイでの団体総合第10位(岩手高校)、個人総合第10 |
位(村上)団体総合トップ10入りは、今日までの県勢最高記録であり誇りに思う。
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・昭和26年水戸インターハイでの跳馬第3位。(直径3,5cmの小さな銅メダル。 |
青春の証) |
・昭和26年第6回広島国体(第7位)と昭和27年第7回山形国体への出場。
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・石桜功労賞(第10号)の受賞.(光栄至極)
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・昭和31年第9回早慶体操競技会で日本チャンピオン小野喬に挑戦。(東京テレビ |
で放映) 鉄棒 第1位 小野 喬(K)9,90、第3位 村上昇(W)9,60
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・昭和31年全日本体操選手権大会(東京体育館)に早稲田マルーンクラブ(主将古 |
口良治)の一員として出場、団体総合第5位入賞。(現役最終競技会、体操10年 |
の集大成。インカレは早大2位、3位、4位、4位。3・4年次副将)
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岩手の体操が、そしてその核となっていた石桜体操クラブが最も輝いていた時代 |
に、その一員であったことは幸せであった。この際、当時の岩手の体操をリードした |
先輩各位、特にも直接何かとご指導を頂いた戸嶋正夫・足澤至先生並びに石桜体操ク |
ラブ飛躍の先陣をきった吉川孝正氏ら先輩各位に、改めて敬意と感謝を申し上げたい。
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岩手の体操についての詳細は、岩手県体操協会発行の「体操記念誌(平成3年)」「体 |
操50周年史(平成17年)」そして岩手日報社編「岩手のスポーツ人(昭和45年発 |
行)」で知ることができる。体操人の回想、証言、エピソードなど興味深く、青春時代 |
が懐かしく又ほろ苦く甦る。―「石桜のつわものどもが夢のあと」「バトン受け走っ |
て渡して今ハナ」(昇山)
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昭和27年3月 |
盛岡一校にて |
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昭和27年3月 |
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昭和31年 早稲田大学
体操部実演会 |
早稲田大学 体操部時代の演技 |
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早稲田大学 体操部時代の演技 |
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早稲田大学 体操部時代の演技 |
昭和27年 石桜功労賞 |
昭和26年全日本選手権 |
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<拡大写真> |
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