平成3年5月1日発行 記念誌寄稿より引用


       岩手大学体操部創設期の頃        四戸 孝丸 昭和25年卒(新2回生)



   昭和25年5月、岩手大学に入学したのですが、当時は新制大学創立2年目のことでもあり、体操部な

  るものはありませんでした。岩手師範学校本科在学中の菊池淳氏(現水沢市立姉帯小学校長上野村氏、

  他1名の三人が師範学校体操部を支えておられました。

   大学(学芸学部)にある器具は、移動式高鉄棒1欄、跳箱数台、マット数枚程度で本格的な練習はで

  きず、出身校の岩手高校へ行って練習する毎日でした。

   この年の6月、全日本学生体操競技選手権大会開催要項が手に入り、自分の力試しの意味で個人の資

  格で2部長に登録出場申込みをしました。当時のインカレは、男子の部が1部と2部の構成で1部は東

  数大、日体大、早稲田大、慶応大、同志社大等10校ぐらい?で、その他の大学は全て2部出場の規約で

  行われていました。2部は自由種目のみの演技。10月中旬奈良県天理市で開催され、菊池先輩がマネー

  ジャー役で私と二名で参加しました。2部個人は26名出場だったと記憶していますが、個人総合で12位、

  種目別平行棒9位の成績でした。一般の部になった私にとって初の全国大会出場ということで、菊池先

  輩と共に参加したこの大会の印象が深く残っています。インカレには大学3年生になった10月、神奈川

  で行われた大会に再度挑戦、この時は単身で、鳴海正人先輩が在学されていた日体大の寮でお世話(2

  泊)になり、日体大体操部員と一緒に練習、調整して大会に望みました。この時の練習で平行棒の単棒

  片手開脚カット下りを体得し、大会で活用できたのが大きな成果でした。前回と同じ2部個人戦の部に

  出場、個人総合では38名中9位、種目別平行棒で7位、前回よりは幾分上位になったが入賞ならず、全

  国の壁の厚さを痛感させられた大会でした。この年(昭和27年)6月、第4回東北地区大学対

  抗総合体育大会が岩手大学主管で盛岡市に於て開催、体操競技は盛岡一高体育館で行われました。この大

  会に岩手大学体操部として初めて団体チームを編成し出場しました。メンバーは、仙(現体操協会副会

  長)、日向(同)、桑島(現盛岡市役所助役)太田(現岩手大人文社会科学部教授入渡辺(現厨川中校

  長)、四戸(現玉山小校長)の6名、団体総合では秋田大が優勝、二番手は福島大、山形大、岩手大の

  争いとなったが、まとまりある我が岩手大が準優勝を成し遂げた。個人総合では、秋田大の秋元君と岩

  手大四戸のせり合いとなり、私は跳馬での1点減点がひびき、総合得点において0・25の僅差で彼が優勝

  した。




  ● 平行棒 優勝の四戸孝丸

  ※ 岩手大学の成績
     ・団体総合 第2位
     ・個人総合 第2位四戸
     ・種目別 平行棒、鞍馬 第1位四戸
           

  秋元君についてー 後に小田原姓となり、秋田県営体育館長、
  秋田県体操競技協会理事長を務め昭和60年12月故人となられた。
  小生のライバルであった彼の冥福を祈りたい。
平行棒 優勝 四戸
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   翌年の第5回大会は福島市で行われることになり、私にとっては大学最終年でもあるので、団体総合、

  個人総合両優勝を目指して練習に取り組んだ。参加申込みメンバーは、机、太田、渡辺、関村

  (現姓藤原、副会長)小森(故人)、四戸のフルエントリーで提出したが、大会2週間ぐらい前に行われ

  た体操協会主催の春の講習会で私が房関節脱臼の負傷をしてしまい、大会会場には行ったが演技不可能

  の状態で止むなく棄権し、残る5名で出場した。

  前年同様秋田大の連勝、我が岩手大も頑張り第3位を確保した。この健闘は讃えられて良い。



  ※ 岩手大学の成績
    ・団体総合 第3位
    ・種目別 跳馬 第1位 太田 第3位 杣
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   大学最後の大会に出場できなかった私にとって無念さと共にチームに迷惑をかけた後悔の気持が強く

  残る大会でもありました。

  卒業以後、三十七年程経過した今思うことは、自分なりに充実した時期であったこと、そして様々な

  記憶が次から次へと蘇ってきて、これがまた、一つの楽しみにもなっています。






第三回石桜体操競技会 体操部員と
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