平成3年5月1日発行 記念誌寄稿より引用



回  想      館澤 博明 昭和42年卒業(新19回生)


   ほこりだらけで薄暗い木造の古ぼけた体育館の片隅にセットされた赤く錆びついた鉄棒で汗と炭マと

  血染めのプロテクターをつけ、痛みをこらえながら練習した時の事が今更のように思い出される。

  昭和39年、当時の岩手高校の体操部は、その年まで岩手県では回りに敵なしの不動の地位を築いていた。

     しかし、私が入学した昭和39年のインターハイ予選で不覚にも連勝の夢が途切れてしまった。負け知

  らずのチームが負けてしまった事で、顧問の足澤先生、菊池先生の怒りを爆発させてしまい、その敗戦

  から地獄のような練習が始まった事を覚えている。

   体力的にも精神的にも未熟な1年でも、体が出来てる先輩達と同じ時間、同じ練習量はついていくだ

  けで辛く必死の思いであった。更に夏の合宿に入ると、練習の厳しさは留まることなく最高潮に達した。

  合宿中は常に筋肉痛、手の痛み、技が思うように出来ないなど苦しい期間で、体操の楽しさなど少しも

   感じられなかった。特に、器具練習5時間ぐらいで終った後の補強練習が1番幸い仕上げのメニューで

  あった。この補強練習が言わば地獄と恐れられているもので、竹刀を持つ菊池先生がェンマ様に見えて

  くるのであった。

   又、その期間になると決まって、卒業生の方々が熱心にしごきに来てくれるので1時間半ぐらいで終

  わる予定がよくそれ以上続く事がしばしばあった。

  この様な厳しい練習の甲斐があり、再び岩手高校体操部が甦った。おかげで私自身も2年、3年にイ

  ンターハイ、国体に出場することができた。今では高校時代の体操を通じて数々の思い出を作っていた

  だいた岩手県体操関係者の方々、並びに恩師、先輩の方々に感謝致します。最後に体操協会の40年を祝

  い結びと致します。