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私と体操 |
吉川 孝正 |
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私と体操の出会いは、昭和16年、小学校4年生の頃だった。クラスの担任が女の先 |
生から若くてハンサムな男の先生にかわり、スポーツ万能のこの先生が、私達に色々 |
なスポーツの手解きをしてくれた。なかでも水泳、スキー、スケート、体操の4種目 |
に力を入れて指導された。夏休みには、毎日雫石川に出かけ太田橋の下流で、日が暮 |
れるのも忘れて夢中で泳いだ。冬休みには、厳寒の高松の池で等でリンク整備をしな |
がら楽しく滑り、また、重いスキーを肩に冷たくかじかんだ手に「ハァーハァー」息 |
を吹きかけながら岩山まで歩き、終日滑走を楽しんだものだった。 |
肝心の体操は、昼休み時間や放課後の遊びのなかで自然に体得した。低鉄棒での足 |
かけ回りや、前回りなど40回、50回と連続回転数を友達と競い合い、100回以上も回っ |
て目をまわし、ふらふらになったことなど懐かしく想い出される。小学校を卒業する |
頃には、鉄棒で振上り、巴、蹴上り、前転程度の簡単な連続技ができるようになって |
いたし、背面蹴上りを覚えたばかりに益々鉄棒が面白くなっていた。 |
昭和19年、岩手中学校(旧制)に入学し、何のためらいもなく水泳部に入部したが、 |
何時ものように昼休みに鉄棒で遊んでいたら、上級生がそれを見ていて「名前は何と |
いう。何部に入った?」と問われ「水泳部です。」と答えたが、「そんなものやめて体 |
操部に来い。」と一喝された。当時の上級生には絶対に逆らえない恐さがあり否応な |
しに承諾させられてしまった。 |
体操部に入ったもののその頃は、第2次世界大戦の真最中で、1年生といえども学 |
徒動員を余儀なくされ、農作業や土木工事等に従事し、授業もままならない状況で部 |
活動は殆どないに等しい状態だった。翌昭和20年8月、長かった戦争がようやく終結 |
し、除々にではあるが学生生活も明るさを取戻していった。いち早く活気を呈したの |
が各部の活動で、悪夢のような戦争体験を吹っ切るかのように、青春のエネルギーを |
スポーツにぶつけ、生きている証とした。 |
日本国中が飢餓と貧困で奈落の底で喘いでいた昭和21年、第1回国民体育大会が京 |
都において華々しく開催された。それまではただ好きでやっていた体操だったが、こ |
の時から「よし俺も必ず出場するぞ」という目的意識が生まれ練習にも一段と熱が入っ |
た。毎日暗くなるまで体を動かし、日曜日も休まず体育館で汗を流した。正月に鉄棒 |
や平行棒にしめ縄を張って礼拝し、清々しい気持ちで書初めならぬ練習初めをしたも |
のだった。 |
その甲斐あってか私は、第2回国体、第3回国体、第4回国体と卒業するまで3年 |
連続して国体に参加させていただいた。卒業後も一般の選手として国体に参加するこ |
とができたが、これも偏に故前沢先生をはじめ足沢先生や諸先輩の良き指導者に恵ま |
れた賜物であると今も深く感謝している。また、当時世界の第一人者だった竹本先生 |
に教えを請うべく、遥々東京まで出かけ練習を共にしていただいたこともあったし、 |
深井先生、古口先生、二条先生等、日本の一流選手も盛岡に招へいしていただき、そ |
の華麗な演技にじかに接し、スポーツというよりも人間の躍動する肉体がかもしだす |
極限の芸術を垣間みた思いがして、体操の奥の深さに唯々驚嘆したことを覚えている。 |
選手を退いてからは、お世話になった体操界に少しでもお役に立てばと審判員を勤 |
めたが、昭和45年第25回岩手国体の審判を最後に足を洗った。現在は岩手県体操協会 |
監事、盛岡市体操協会顧問として役員の末席を汚しているが、名ばかりの役員で殆ど |
行事に参加協力することもなく、大変心苦しく、協会の皆様に深くお詫びを申し上げ |
る次第です。 |
この記念誌が発刊される頃には、私も還暦を迎える年齢になっているが、ここ十数 |
年来スポーツとは疎遠になり、ご他聞に漏れず運動不足をかこっている。とは言えス |
キ?だけは別で、シーズン中、毎週休日には安比、雫石、網張等々スキー場参りを唯 |
一の楽しみにしている。 |
雪が恋しい今日この頃である。 |
平成3年5月 岩手県体操協会40周年記念誌 手記より転記 |
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第三回石桜体操競技会 |
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