石桜振興会(現石桜同窓会)主催 |
座談会【村上昭夫を語る】 録音記録文復刻再録 |
第1回 平成元年(1989) 5月12日 |
【出席者】 松見得明(同窓会長)、岡澤敏男(同級生)、大坪孝二(岩手県詩人クラブ代表) |
村上ふさ子(昭夫夫人)、A氏(進行係)、 B氏、 C氏 |
|
|
|
|
|
松見 |
今日はご案内申し上げましたところ、いろいろ多用中だったと思いますけども、お集まりいただきまして、ほんとうにありがとうございます。 |
|
お集まりの趣意を申しますというとうと、村上昭夫君という素晴らしい詩人がいる。そういうことを学校の生徒も父兄もあまり知っていない。 |
|
一般社会でも、あまり知られていない。村野四郎さんが激褒しているだけではなくて、私が実際に「動物哀歌」を読んでみて、大分前にな |
|
りますけれども非常に感激しまして・・・率直に申しまして詩人の描くイメージというものが、私らのような凡人、素人にはなかなか想像も |
|
つかない。したかって、わからない詩ばかりたくさんあって、どうも現代詩というものが、我々庶民には、近づきにくい、理解しがたいものが |
|
あるなと常々思っておったわけですが、「動物哀歌」を読みまして、もちろんわからない詩もありますし、私が受けとる内容以上に深いもの |
|
があるには違いないんですけれども。しかし、こう通読しますというと、なかなか私のようなものにも、何かこうわかるような、そして深いもの |
|
が感じさせられる。そういう詩でありましたんで・・・。何とか、これは、一般社会にももちろんながら、学校の生徒あるいは同窓生、PTAの |
|
人たちにも、、認識してもらいたいものだと。こういう宝もあるんだということを知ってもらいたいという気持ちから、今日のお集まりをお願いを |
|
したわけです。 |
|
いろいろこう読んでおりますというと、大坪さんに、村上君は大分お世話をいただいて、非常にお近づきをいただいて、いろいろその折々の |
|
ことを御存じだということがわかりましたし、また、幸いに奥さんもご健在でいらっしゃるということもわかりましたので、そういう方々をお呼び |
|
して、いろいろ村上君のことについて、お話を承って、それを中核に据えて、いろいろな資料を集めて、小さな、ささやかではありましょうけ |
|
れども、予算の許す範囲で、パンフレットのようなものをつくって、生徒にも配りたい、父兄にも配りたい。同窓生にも読んでもらいたい。 |
|
そういう気持ちでおるわけでございますので、一つ、御存じのことを、思い出されますようなことなどを、洗いざらいお話いただければ、 |
|
大変幸せだとお願いを申し上げるわけでございます。 |
|
以上を申し上げまして、今日おいでいただいた集まりの趣旨にかえさせていただいて、ごあいさつといたします。どうも失礼をいたしました。 |
A氏 |
大坪さんからお願いします。 |
大坪 |
私は学校の先生やったことないもんですから話は下手なんですけど・・・。皆さんがこの詩をお読みになっていなければ…。 |
|
本当は、読んでいただければ一番よろしいんですけれどもね。読んだ上でお話したら、一番よろしいんですけれども… |
|
これはもう二回目こつくった本なんですけれども、これがなくなりましたが、赤い表紙のものも、もうなくなってます。それで、この本が出ま |
|
した思潮社という東京の出版社が、今年の初めの年賞状で、これを手本にして、現代詩文庫というようなもの、小さなものですけれど・・・。 |
|
大体980円ぐらいかな、1.000円にならない程度の値段で出したいという話がありまして。赤い方の本を1週間ぐらい前に送ったわけです。 |
|
それが、大体夏頃までに、返事が来ますんでね。そうすれば、中を選んで。この本には、192あるんです。こちらは大体70から80点てすか |
|
ら大体その中間ぐらいをとって、140から150と・・・。こういうふうにし出すつもりで・・・。出版社の方が始めてますんで、 |
|
今年の秋あたりには本ができると思います。 |
B氏 |
この本の前に・・・。 |
大坪 |
あ、この前に・・・。 |
B氏 |
ちょっと青いようなやつ・・・。 |
大坪 |
こっちの青いやつ。 |
B氏 |
ええ。 |
大坪 |
これはもう300しか作らなかったもんですからね。 |
B氏 |
これ、私持っていたんです。 |
大坪 |
あぁ、そうですか。この本は高いんです、初版は。 |
B氏 |
それの年表は、こういうふうに書いてあったんです |
大坪 |
それこそ、今、古本でも25万か30万ぐらいでしょうか。ぜひ探し出して・・・。私も4、5冊持ってたんですけどね。 |
|
やっぱり欲しい欲しいっていう人に、どうしても義理でおあげして・・・。この赤い本も、すっかりなくなりました。 |
|
今会長さんもおっしゃったように、割りに、現代詩というのはのは、私ども書いてる方の側からしますと、非常に難しすぎるというお話があり |
|
まして、。そのとおりなんで・・・。大変、読まれない方が多いんですけれども。村上昭夫君の詩集をご覧になった会長さんのお話のとおり |
|
だと、私は思います。あとでお読みになっていただいて結構ですけれども、非常に、一般の人にはわかりやすい詩が書いてあります。 |
|
それで、これ、村野四郎さんが岩手日報の選者をしまして、まず、村上昭夫さんの詩に注目して、一生懸命指導をしたのが、こういう詩集 |
|
の完成になったわけでして。この序文…、詩集には、ほとんど序文ありますけどね、序文に、まあ非常にちょっと抽象的でわかりにくいんで |
|
すが、ちょっと読み上げてみます。 |
|
『岩手というところは、不思議な地方だ。あの荒涼としたチベット地帯を中心にして、海や平原に広がろうとしている。どんな文明でも知り |
|
尽くせない。あるいは知れば、それ自身が破壊されてしまうであろう、何か非常に神秘的な物質の鉱脈が埋蔵されているような気がする。 |
|
その鉱脈の一つの露頭が宮沢賢治だった。私は、この地に注目してから20年。いくつかのさらに新しい露頭を発見したが、その最大な |
|
ものが、村上昭夫だ。」 |
|
こういうふうに村野四郎さんが言ってるとおりでありまして。この中に、【秋田街道】jとかという詩を・・・『無限』という雑誌がありまして、 |
|
その雑誌に次々に紹介したのが、全国的に知られる一つの大きなきっかけになったように感じます。それでこの本ができましたのは、 |
|
年譜にもありますけれども、亡くなる前の年、42年にできたものでして・・・。話があっちこっち脱線しますけれども。 |
|
仙台で厚生病院に入院して、手術をしまして、帰ってきてから、青山一丁目の国立盛岡療養所に、2回くらい入院しましたが、その間に、 |
|
今まで書いた…、250ぐらい数があるもんですから、それを整理して、それで、出そうということになりまして…。41年の暮れに、 |
|
これは10月10日というのは、私の日記によれば、10月16日って、ちょっとずれてますけれども、宮静枝さんと私と一緒に行って、 |
|
ウイスキーのダンボールの箱に、ぱっと…、雑ですけどね、全部鉛筆書きなものですから、ほとんど。それを区分けしないで、そのまま入れ |
|
たやつを、私預かって。たまたま42年の春先に出すつもりでした。ちょうど私が、高血圧でちょっと入院しまして…、1カ月ぐらいかな、 |
|
ちょっと具合が悪くて、勤めにはゆきましたけれども・・・。それでいよいよ花が咲いて、散った頃に、今年の晩翠賞に間に合せないかという |
|
話が出たもんで。杜陵印刷がまだ松尾町の…、盛岡射場の裏・‥、隣同しにあった時代です。ちょうどそこに高橋昭八郎君という人が、 |
|
会社に入ってたんで・・・。彼と泡を食ってダンボール箱を選別しまして、動物に関係あるもものとか、それから空に関係ある・・・、 |
|
宇宙とかですね、あるいは仏教に関係あるもの、それからそのほかというような、大雑把な分け方をしまして、それで3回ぐらいにわたっ |
|
て、、確か・・・。その4番目か何かは、米内に長い間サナトリウムに入院した時に書き始めた詩だったもんですから、全体の流れから・・・、 |
|
水準からみると、少々落ちるので、そこは、一括して全部削りまして、そして後で村上昭夫君に大分私は怒られたんですけれども。 |
|
かえって、その切ったことによって、詩全体が非常によくなった。そういう色々なことがありまして・・・。 |
|
ようやく9月に、たった5冊だけできたんですよ、製本が。それをちょうどたまたま村野四郎さんが、国語研究会か何かの講師で、高田から |
|
回られて……、ぜひ村上君を見舞いたいというんで・・・。私と高橋昭八郎君と大通りの花屋さん、今はもうなくなりましたけれども、 |
|
確か今、中央通りにできてる岡田花屋さん、そこで花を買っで・・。村上昭夫は村野さんとは2回しか会ってないんですけどね。たまたま |
|
高橋昭八郎君がカメラを持っていったもんですから、その療養所のところで、こういう写真ですけどね。これはまだ前の年の写真です。 |
|
そして、その時に、いろいろ話をして、村上昭夫は恐縮をして。まさかね、急に会えると思わなかったですからね。 |
|
で、その秋の10月の19日に、8回目の土井晩翠賞をいただことになりまして・・・。年表では、おとうさんと、奥さんと、和夫さんが行かれた |
|
わけです。そのあと、晩翠賞もいただいたので、その詩集の出版記念会をやりまして、それで、校長先生なんかの話だとかそういうことも |
|
あって、次の年に、H氏賞の候補には、もうその頃から、村野さんと私といろいろ情報交換がありまして、私何回も電話したり、 |
|
手紙したりしましてね、大丈夫だろうかっていうことで。3月に、H氏賞は、選考委員会がありまして、そして、鈴木志郎康という、当時NHに |
|
勤めていた詩人ですけれども、これと一緒に、「動物哀歌JがH氏賞に決まったわけです。 |
|
それで、これは、賞に決まりますと、受賞をなさいますかどうかという、選考委員会から必ず手紙がくるんですね。で、 |
|
葉書を書いて出さないんですよ、受諾するとね。彼は、なかなか、頑として、いうことを聞かないんです。 |
|
土壇場になったらね。というのは、晩翠覚をもらって、いろいろ、有名になりましたらね、全国の知らない人から、いっぱい電話とか葉書とか |
|
手紙・・、いっぱいもらうわけですね。彼は、それに返事を書くのに、、もうすっかり疲れはてたわけです。ましてや、全国的な賞をもらったと |
|
なると、いよいよそれが拡大されるものですからね。だから嫌だって・・・。それでね、やっぱり、1時間位私と高橋昭八郎と2人でね、 |
|
病室で、他の患者さんには外に行ってもらって、一生懸命説得したんですよ。その時に彼はね、「眠狂四郎」か何か読んでね、この本は |
|
一番いいいんですよとか何とかっていう話をして、全然こっちの受賞の話しにのってこないんですよね。 |
|
それで、じゃ、とにかく責任は私がもつからということで、私が葉書に受諾しますと書いて・・・。 |
|
三好豊一郎さんという方が選考委員長をしていて、その方に電話をかけまして、経緯を簡単に説明して、恐らく東京でやる受賞式には行 |
|
けない思うけれども、代理でもいいかということで、承知してもらいました…。で、何か万年筆か賞状か何かと賞金10万円ぐらいですかね、 |
|
確か。今は30万円ぐらいになりましたけども。 |
|
それで、その時に、佐伯郁郎さんという、まあ我々の先輩ですけれども、その方が元気で一緒に行って、その受賞式に参加してもらって |
|
ね。それで、その時にも、その青い表紙の本は、300しかつくりませんで、50部は、村上さんのおとうさんの方で買っていただいたんです。 |
|
それが確か700円かな。確かね、20万ぐらいだから、300かける7で、21万で、倍になるという計算したと思うんですよ。 |
|
そうしましたら、たちまちそれが…。100ぐらいはもう、彼の仲間に全部押し売りしたんですね、私ね。それで、足りなくなっても、また何ぼ |
|
印刷したら売れるかってしいうそういう見通しがつかないもんですからね。涙をのんで、やむなく・・・。 |
|
そしたら、一昨年亡くなった沢野起美子さんという東和町出身のお金持ちのおばあちゃんがいまして、その人がこの本を全部出して |
|
くれて・・・、つくってくれたんですよ。で、草野心平さんのやっている「歴程」という雑誌の同人にもなり、ただし、作品は、一回も送らない |
|
うちに、その年に亡くなってしまった。 |
|
最後の頃は、目が見えなくなりましてね。私に電話がきてね、国立療養所に眼科ないのかって聞かれまして。目を診てもらったらね、 |
|
眼科の方では、別に目の方の病気はないって。それはもう全部、体の蓑弱の方からきているんですね。それで、万年筆にインクが入って |
|
ないのも知らないで、こう書いたり何かして。何かここにも、校長先生にね、読めないようなのを送ったり何かしたようなのあるんですけ |
|
ど・・・。お父さんも、大分、手紙の返事は代筆したんですけどね、間に合わないんですよね。10月11日に、朝、手を組んで、合掌の姿を |
|
して亡くなったという‥・。この詩集が出てからの、彼の道程は、大体そんなことなんですけれども・・・。 |
|
私は、大体、サナトリウムから出てきてから亡くなるまでの間しかわからないんですよ。ですから、岩中時代とか、あるいは満州時代とか、 |
|
あるいは郵便局の時代。そのへんは、それこそ皆さんの方から、いろいろ昔の思い出なんかお話していただけると、だんだん、浮き彫りに |
|
なってくるんじゃないかなという感じはします。 |
|
詩について若干言いますと、村野さんの選んだ詩は、村野さん好みの詩を選びましたのでね。 |
|
70編の方とこっちの初版というか、全部のせた本とでは、大分狂いがあるんです。私の好みの詩を2.3選んで読んでみますと、 |
|
読んた上で、ちょっと少しその詩のことについてふれてみたいと思います。 |
|
悪声ですけれども、ちょっと読みます。 |
|
(「雀」 「雁の声」 「秋田街道」 「病」など朗読。一昭夫詩集参照) |
|
今5つばかり読みましたけれども。前の方の3つは、大体日常ありますような小動物、あるいは鳥とか、そういうものを、いつも彼は好ん |
|
で材料にしました。その描写ということだけでなしに、それを使いながら、しかもなお生き物の命というものの美しさというか貴重さ、そういう |
|
ものを大事に、彼は、何度も何度も繰り返して、いつも自分でそういうふうな詩をつくり上げていったわけです。そこがまた「動物哀歌」の |
|
基調なわけです。それから最後の方の「病」というのは、長い間、ほとんど彼の人生の半分以上は、肺結核でしたから。それで、20年から |
|
40年まで続く…、今はもう肺結核の後遺症も薄れてきたという…、まあ奥さんなんかもそうですけども、そういう方が、県内にもたくさんいら |
|
っしゃって・・・。そして、病気と戦うというのは、いかに我々健康な人生とはまた違って、いかに悲痛なものであるかという、そういうことの |
|
ゆえに、結局、常に死と生のちょうど真ん中に、背中合わせに存在しながら、ものを見つめ、ものを考えるという、そういう姿勢を持たなくち |
|
やならなかったという、悲哀みたいなものが、この詩集の中に、底辺に、ベースに、いつもある。ですから、皆さんも、恐らくお読みになれ |
|
ば、そういうものが、静かにわき上がってくるんです。そういう意味で、この詩集が、多くの方々に読まれることによって、村上昭夫という人 |
|
がつくったものを通して、人間の生と死についてじっくり考えさせる何かを、この詩集はいつまでも持っているんだというふうに、 |
|
私は考えております。わかりやすく言いますとね。 |
|
ただ、方法論的に言いますと、つまり、断定が多いんですよ。だとか、であったとか、それから、繰り返しが、あず前と後ろにある。 |
|
これは、私ども同業者からすれば、いやー、前に一回ぽーんと、これだけいっておいて、中でこういろいろと説明しておいて、また最後に同 |
|
じこともそうせざるをえないという、そういう並べ方の必然性が必ずあるわけですよ。そこがまた村上昭夫の独特の方法なんですね。 |
|
それは、ほかの人が真似したんじゃ、全然意味がないんですけれども、彼のような、そういう突き詰めた、ものを考えて書いていくという |
|
人には、この方法が一番適切じゃないかという、そういう感じがするわけです。 |
|
『秋田街道」なんかは、もう今彼がこの詩を書いたのも、20数年前ですから、もう既に今の現状でしたら、昔は、詩人は、未来を予知して |
|
いく…、英文学とかフランス文学とかあたりには出てますが…。そういう意味では、こか秋田街道というのは、この中の詩集の |
|
詩の中では、ちょっと変わった詩だなというふうに感じましたし、発表された直後も、彼がこういうものへ関心が向いて、ただ動物たちの |
|
哀しみだけを詩うんじゃなくで、多少現実的なものに向かっていけば、もっとこう新しい展開るんじゃないかなという、我々はそう確認しま |
|
したし、彼にもそういうことを一生懸命口説いたんですけれども・・・。やっぱりちょっとこう・・・。自分の体自身がやっぱり弱ってきてます |
|
しね。体力がないからどうしてもながいものを書くという・・。やっぱりそういうハンディがいつも彼の場合つきまとって。そこがまた悲しい |
|
詩人の詩の原因じゃないかというふうに私は感じていました。 |
|
特に彼が影響を受けたのが、村野四郎さんの作風というのは、全然この人と達うんですよ。それで、むしろ、あっちの方は近代的で |
|
こういう素直なわかりやすい詩というのは、あの人からみると、もってないものなんですね。ですから、それだけに、村野さんが、村上昭夫 |
|
の詩・・・。だから、一生懸命に、日報でいろんな評をして、一生懸命書かせた。そういうことが当時あったと思います。 |
|
それからもう一つは、これも全体をご覧になるとわかると思いますが・・。宮沢賢治の影響が非常に強いということは、恐らく、 |
|
岩中時代に宮沢賢治にふれたかどうかは私にはわからないですけれども。おそらくサナトリュム時代に俳句から彼は文学に入るわれで |
|
すけれども。高橋昭八郎という、今いる彼の後輩・・、後輩っていうか若い、としが6つか7つほど若い詩人の方が、彼よりずっと詩について |
|
は詳しいわけです。だからその彼が色々ああだこうだというアドバイスをして、まあガイドみたいなことを彼はやったち思うんですけれどね。 |
|
その時に、宮沢賢治の詩にひかれたのか、あるいは宮沢賢治の童話にひかれたんですね。だから、あとで、宮沢賢治の碑を |
|
見学する会を、12、3人でやってるんですけれども。ちょうど、まだ、宮沢清六さんの豊沢町の本宅へ行きまして、佐伯さんの紹介で、 |
|
生原稿をその時見せてもらったんです。にそれで、その時にものすごく書込みが多いんですね、宮沢賢治の原稿というのは。それで、 |
|
それまでは、彼もあまり書き込みとか校正していなかった原稿が多いんですよ。原稿用級にね。我々も見せられたし、大学ノートの詩 |
|
それで、それを見てもう愕然となったわけですね。30分位もうじっと見ていた記憶があるんですけれども。 |
|
それから結局この本を作るまで彼は書き上げていたものを3.4回は直して・・、書き直して・・、ですからそれだけ、つまり宮沢賢治の |
|
持っている精神と同時に、これだけ一生懸命言葉について考えてるというのは、その時併せて勉強したんではないかなという・・・、 |
|
私は一緒に行って感じましたけどね。時々話をした記憶によれば、宮沢賢治の世界全体がこういうふうに・・。何回もかれはしゃべったり |
|
それから童話で、いろいろ独特な童話がありますね、宮沢賢治ね。そういう童話を、一生懸命話をして。私は詩のほうは、彼よりずっと前に |
|
読んではいるんですけれども。童話も、いろいろたくさんありますので、むしろ彼から、宮沢賢治の童話について聞かされた記憶がだいぶ |
|
ありました。宮沢賢治に傾倒することによって、今度は仏教にいくわけですね。仏教の…。加賀野の中道27番地に、彼はずっと長く |
|
借家でいまして。どういうわけか、結核をやったせいもあって、こういう服はないんですね、いつもどてらを着て。床の間を背に、 |
|
俺は立派なんだ・・・。我々は普通、お客さんを床の間にやりますけど…。彼は床の間にこうやってね、腕組みして…。必ずこう話をして、 |
|
でノートに、50ぐらい…、1ページに1つずつですから・・・、書き込んだのを、まず見せられて・・・。あとでゆっくり読むからって…。 |
|
まず読めって。読まされて、そのあと、お茶も何も出ないで、お釈迦さんの話が出るんですよ。そうするとね、長いんだよね。また同じような |
|
話なんで。で、亡くなってからいろいろ彼の仏教の本があるかって開いて、ちょっと見ましたけれども・・・。大した本は読んでないんですよね。 |
|
読んではないけれども、1冊の…、仏教なら仏教に対する信念みたいなのは、同じものを読むことによって、自分の頭にたたきこんだという、 |
|
そういうものが、宮沢賢治の影響と同時に、詩の中に出てきた…・。 |
|
それで恐らく、私は特に昨夜から今朝にかけてちょっと読んだあれでは、満州時代の影響だと恩うんですけれども、今でいうシルクロード |
|
ですね、ロード…、砂漠とか・・・、ああいう中国の広大な風景というのが、ここの素材に出てくるわけですね。詩にも出てきます。やっぱり |
|
満州時代の経験というのが、この中にやっぱり特色として残っているんじゃないかという感じがするんですけれども。 |
|
もし、学校の同窓会の方でいろいろなさるのであれば、彼の学校時代どうでしたっていう一般的なやつよりも、学校時代のいろんな、 |
|
・・・・先生とかのいろんな話を聞いた皆さんの中で、どういうものがこの詩のもとになっているかというのがね、それが、私どもとしては知り |
|
たいなという感じがするんですね、逆に言えば・・・。つまりその青春…、怒涛の青春を彼は送っているんですけれども、つまりその青春の |
|
前の熟成するいい時代ですね、13から17、8ですね。その頃の学校教育の中で、どういう彼はものを吸収したかというのは、あとでこれに |
|
出てくるんじゃないかと思うんです。そのへんが、私どもの方ではわからないわけです。それから満州時代のこともわからないですけどね。 |
|
これを探っていくとまた一つのおもしろい研究にもなるかと思うんですが…。 |
B氏 |
これは初版の本にあったんてすけれども・・・。 |
岡澤 |
『皿』というものの追悼特集・・・。それにはこれが・・・。 |
大坪 |
とすれば、『皿』というのは、詩人クラブの追悼号でして…。これは、斎藤彰吾君が選んで調べたと。それにまた付け加えて、 |
|
・・・・・・・・・・・・・中略・(不明) 直さないといけない。 |
岡澤 |
それで、それを手本にしてやったのがね、その・・・、第何版か出たやつ・・・。 |
大坪 |
あ、あの赤いの。 |
岡澤 |
一昨年、東山町で、図書館で、昭夫展やったでしょう。 |
大坪 |
ええ。間違って… |
岡澤 |
それに年譜が出てるんですけどね。 |
大坪 |
ああ、間違って出てるんですね。 |
岡澤 |
ええ。それは赤表紙の年譜を参照したということです。 |
大坪 |
ああ、そうですか。1版最初「歴程」の年表は、私作ったんです。 |
岡澤 |
ああ、そうですか。 |
大坪 |
極めておそまつでね、散々怒られたけども。何しろ、亡くなってすぐですからね。これは、本当は、ある程度時間をかけて。 |
岡澤 |
少しずつね。 |
大坪 |
ええ。少しずつ手分けして調べていくと、完璧なものができるんですね。 |
岡澤 |
東山町の昭夫展に出ている年諸と、1年ずれているんですよ。 |
大坪 |
ああ、そうですか。というのは恐らく、こっちの方がおそまつ、こっちの方がまだいいんですよ。赤版の方がいいんですね。 |
|
赤版の方が、少し直したみたい。ちょっと直した…。 |
|
それで、後で本ができましてから、お読みいただくとわかるんですが、そこに歌人の小泉さん、いらっしゃるんですけれども。 |
|
国語の文法的に言うとですね、非常にまずい使い方のところがいっぱいあるんですよ、実際は。ですが、それをね、文法どおりに直しま、 |
|
すと、村上昭夫の息遣いがなくなるんでね。そこで、あえて、その原稿に忠実にやったわけです。それについては、村野四郎さんもやむを |
|
えないだろうという話なんで。恐らく、今、これから、これ、本が出て、もし若い人が読むと、あれ、ここ、先生おかしいんじゃないかっていう |
|
のはね、数箇所どころじゃなくて、いっぱいあるんですよ。いつも同じ使い方してますからね。そこは、例えば、文字というのはね、等感覚 |
|
に、こう並べます、例えば音符もそうですけれども。その等感覚に並んだ、その一つ一つの間に、その流れの中に息遣いっていうのがあ |
|
るんですね。間があるわけです。それが大事なので、国文法で、こうだああだっていうだけで追求をされると、詩の解釈が難しくなってくる |
|
んです。そういうことではなくて、こう読んでいって、全体の中から、どういうものをつかみとるかという、そういう方法をやっていただかな、 |
|
いと、これはなかなか難しいんで。それを、あえて、我々承知の上で、直すべきやつを、1回直して、もう1回もとに戻したり、校正の時やり |
|
ます。そういうやむをえない苦労もありますので、あらかじめ、それは頭の中に入れといていただければ、幸いです。 |
A氏 |
奥さんから見た昭夫さん、どんな方だったですかね。優しいというか、暴君というか・・・。 |
村上 |
私はね、困るんですけれども。私、ほとんど生活を共にしなかったものですから。だからもう人づてに聞くことだけなんですね。 |
|
村上の母から聞いた生い立ちとか、それから、身辺のことが多いもんですからね。結局、病気ですれ違ってましたしね。それから、 |
|
とにかく、私が退院すると、彼が入院するというくらいで、全然すれ違ってましたし。おしまいの方は、私はもう教職に復帰しまして、 |
|
あっちの九戸の野田玉川の方におりましたから。だからもう夏休みとか冬休みに、ちょっと村上家に・・・、ちょっと寄るだけという調子でした |
|
からね。だからもうほとんど、それこそ、大坪さんとか、昭八郎さんの方が、詩に関しては詳しいし、それから身辺のことについても、 |
|
私はあんまり詳しくない・・。 |
大坪 |
彼がふさ子さんと結婚したというのは、全然知らなかったんですね、私どもは。 |
岡澤 |
ああ、そうですか。 |
大坪 |
まあ・・・、それこそ亡くなられる頃ですもんね、私どもにわかったの…。彼ももちろん何も言わないし、私どもも、何も開く必要はないと思っ |
|
て…。今さらというね。ただ奥さんの方がね、重体だったんです、サナトリウムの時ね。こっちの方が先に死ぬだろうという・・・。大方のね、 |
|
そういう予想だったんだそうです。それが、村上昭夫氏の方が早く亡くなって・・、ふさ子さんはまあまあ生きている・・・。後から、そうする |
|
と、いろいろね、サナトリウム時代の話、 |
|
皆さんから聞くと、いやー、あの頃からだったんだっていう話は、今になってから皆言ってますけどね。当のご本人は、そういうこと、 |
|
一切私どもには滴らさなかったんです。なかなか頑固でしてね。一旦言い出したら、もう言うことをきかない。あれ、やっぱり、長男っていう |
|
のは、皆そうなんですかね。兄弟の下の方の弟さんたちなんか、よく言ってます。いやー、頑固で、言い出したらきかない。 |
|
だから、例えば、風呂屋さんやって、いろいろ怪我したでしょう、転んだり。それから、夜2時か3時頃夜中に、外を歩いで・・・。 |
|
歌を歌って歩いたりね。そういうね・・・、それは奇妙にはみえるんですけれども、私どもとすれば。やっぱりこういうものを書く作家というの |
|
は、非常に孤独なことですもんね。おまけに、彼の場合は、全然収入も何もないでしょう。おとうさんからいただいたもの…、ささやかな |
|
小遣いぐらいなもので…。あとは鉛筆と紙だけあればという気がいつもあるから。ですから、やっぱり、無性にこう何か閉塞状態になった時 |
|
って、ぱーっとね、外へ出て。そういうあれはあったんじゃないですか。 |
|
青山町からね、下駄ばさで、私のとこへ、1回か2回ぐらい来てるんですよ、私のいない時にね。女房がいま、昭夫さん来たよって。 |
|
何しに来たって。いま何かふらっと来て、お茶っこ飲んで帰っていったって。何も仕事がないし家の仕事も手伝えば怪我するし、病院には |
|
入院したくないと、いろいろ、そのへん、複雑なんですよね。だから、ある意味では、彼は、本当にかわいそうな人生を送ったなという感じ |
|
がしますけどね。 |
|
年表にも斎藤彰吾君が書いたんですけれども・・・。仙台の厚生病院で、結局手術して、あと5年ぐらいだよっていうことを、医者から、 |
|
彼は宣告されてるわけですね。それを、我々仲間には、絶対漏らさない。言わない。それで、ある時私のとこへ来て、病気の時に、一生懸 |
|
命自分の書いた詩を、自分でこう暗唱しているんだけれども、痛みは全然消えなかった。詩は何の役にも立たない。法華経もだめだと。 |
|
どうしてくれるんだっていうようなことを、1回だけ…。そこで、ちょっと口論しましたけどね。その時に、私は、そんなことを言うくらいなら、もう |
|
詩も何も書かない…。一切やめてしまえと・・・。仏教も、仏さんを信仰するのもやめなさいと…。で、彼は、何か、ああ、あれは間違ったん |
|
だって、涙なんかこぼしてるんですね。 |
C氏 |
私ども、中学時代の話、話題があれば、非常にいいんですけれども…。そういう件になると、中学時代の写真というのは、全く私の家にない |
|
んですよ。それでね、1枚だけあったんですよね。多分これ昭夫くんだなと思ったのが。これ昭夫だね。(写真を出す) |
岡澤 |
俺も持ってきた。 |
C氏 |
うん、これだけはあるの。校庭のね、飛び越えるのあったでしょう。 |
大坪 |
ああ、戦時中ね。 |
C氏 |
戦時中。それを横にたおして…、並んでね。はじっこに、かわいい顔していてるでしょう。 |
大坪 |
ああ、なるほど。 |
C氏 |
その弁当食ってるのもそうなんですよ。 |
大坪 |
ああ、一番端ね。 |
C氏 |
左に。 |
大坪 |
ええ。 |
C氏 |
1枚ありましたよ。 |
D氏 |
中学時代? |
C氏 |
うん。 |
大坪 |
これは、はっきりしている。 |
村上 |
これはよくわかりますね。 |
大坪 |
剣道部に入っていたっていうことで、何かあれはないんですか。 |
C氏 |
それもはっきりしている。 |
大坪 |
あのね、こういう撮り方はね、あの頃の中学時代は岩中も盛中も大体同じですね。 |
岡澤 |
それから卒業して、これは戦後8年頃の同級会の写真でね。ここにいらっしゃる。これは秀清閣で、いまは無くなったテレビ岩手のビル |
|
が建っている。 |
大坪 |
こりは何年頃でしょうか。 |
岡澤 |
まだ私が農専の学生の頃だったから22.3年頃ですね。 |
大坪 |
ああ、そうですか。引揚げてきてから。 |
|
これは同級会か何かですか。 |
岡澤 |
同級会。岩中の。 |
大坪 |
随分早くからやっていたんですね。 |
C氏 |
同期だもんね。 |
大坪 |
それは郵便局かな。 |
C氏 |
郵便局の時代ですね。 |
岡澤 |
それで、先ほどの話の中でですね、宮沢清六さんと、それから、例の詩人クラブのね、追悼号に、清六さんの文章が出て、記事になってる |
|
部分でね。それに、お手紙が、清六さんのところに昭夫さんからいって。要するにH氏賞受けてね、ものすごい被害をこうむったと。 |
|
随分つらかったですね。お願いと申しますのは、宮沢賢治賞だけは、清六さんが、あらゆる力をふりしぼって出さないでください。本当は、 |
|
世界のいかなるところでも、賞などはない方がいいと思います。このことだけですという葉書を、清六さんに出しているわけです。ですから、 |
|
先ほど、つらい思いしたということで、身にしみて、それで、清六さんに、賢治賞というものを出さないでくれということを訴えたんですね。 |
|
これは非常にいい考え方だなと思いますね。 |
大坪 |
賞をいただく前は、ほとんど誰もつき合いないんですよ。賞をもらったら急に、皆やたらに会いに行きたがるんですね。まあ宮沢清六さん |
|
なんかもそうですけどもね。森荘己池さんとかね。それで、森荘己池さんは、確か、晩翠賞もらった時に、この本のお祝いしましたけども。 |
|
村上昭夫は、全然誰にも会わないもんだから、すぐ隣に森荘己池さんを座らしたわけですね、場所。ちょっととまどったんですね−。 |
|
しばらく・・・、森さんと会わないのは、10年ぐらい。それで、その時ね、森さんはもう病気を治す方に重点をおいて、詩など書かない方がい |
|
いという話が、森さんから出たんです。全然詩に関係のない、つまり、サナトリウム時代の人も何人かいましたし…。何人かは、いや、せっ |
|
かく賞もらったんだから、続けて書きなさいという人と、賛否両論だったんですね。あとで、終わってから、森さんとこへ私お礼に行きなが |
|
ら、あんまりいきなりね、皆でお祝いをしてるとこで、ショックを・・・、強いショックをやってもらっては困る。すぐ死んだらどうするというような |
|
話をしていて。いや、そんなこと、大坪君、大丈夫だよって言うから、いや、あんた、医者でもあるまいしねと言ったわけですよ。私は後輩 |
|
だけどね。いやいやまあ大丈夫だって。次の年亡くなった時にね・‥。また森さんは長寿なんですよ。村上君は結核なんですね。 |
|
皆、我々の仲間で考えてさ、あの野郎、人の神経をさかなでしやがって。もっと大事にしてくれって。 |
岡澤 |
それから県立図書館に、村上昭夫詩集じゃなくて、評論とか、そういう資料というのは、5点あります、ちょっと調ぺてみたんですけどね。 |
|
その中で、杜陵高校の先生、福士則行さんとか、その人の評論というものがあるわけですがかそれには、武田仁さんの弔辞なんかも |
|
のっておる。 |
大坪 |
これ非常に立派な本なんですけどね。間違いが多いんです。 |
岡澤 |
そうです、そうです、ありました。 |
大坪 |
独断と偏見が多くてね。できあがってから、大分、彼と一生懸命やりあったんですけどね。もう少し丁寧にね、まあ自分で金出してやったん |
|
だから、これはやむをえないところで。もう少し事実に正確にやってくれっていう話をしてね。それで、彼はもう北海運に行こうとしたわけだ。 |
|
・・・?になって書たくないからて言ったけど、いや・・・何とか書いてくれって。 |
|
たった1冊なんですけどね。これは資料としては貴重な資料なんですね。 |
岡澤 |
から、間違いをただす楽しみというのは、いっぱいある本だと思います。 |
大坪 |
そうですね。あといろんな人が、いろんなところで紹介したものについては、奥さんの実家にあると思います。あるから、あれは…、 |
|
もしくはあれでしたら、本当はね、詩歌文学館なんかで欲しがると思うんですけれども。まあそれコピーか何かでいいから、おたくの高校の |
|
図書館か何かにでも保管していただくと助かるんですけれどね。 |
岡澤 |
割合におもしろいと思ったのは何ですか。村上昭夫コスモスの‥・。宇宙はまあコスモス |
|
ちょっといいなと思ってみましたけども。 |
大坪 |
ただ、この資料についても、1冊しかなくてね。 |
岡澤 |
・・・?の本ですね。 |
大坪 |
ええ。あれをね、もしあれでしたら、後でコピーをして。 |
岡澤 |
それから、盛岡市立図書館でやった昭夫展。あれは、非常に、資料はびっしりと出てましたですね。 |
大坪 |
このガリ版、何回もやった…。これは、本当に全部小森一民(市立図書結長)君が調べたんですよ。 |
岡澤 |
ああ、なるほどね。 |
大坪 |
はい。で、これを、私の方に何ぼか残ってますから、それ、差し上げますので、もし村上昭夫氏を研究したい方は、これを−つね、 |
|
おおざっぱ・・・、わりときちんとやってますから。これから見ながらお読みになれば・・・。 |
岡澤 |
ですから、この資料はいいと思いますね。 |
大坪 |
ええ。 |
岡澤 |
あの大東町のは、何かあんまりですね。 |
大坪 |
ええ、そうですか。 |
岡澤 |
お粗末でしたね。 |
大坪 |
これは、小森君もまだ若かったから、一生懸命やって。無償の行為で。恐らくね、その時借りた大学ノートは、全部ゼロックスとってある…、 |
|
コピーとったんですね。おたくにやってるし、図書館にもあるはずです。 |
|
私は、31年から34年まで、日記書いたんですよ。詩人クラブの動きを記録するために。そこへしょっちゅう出てくるのが村上昭夫 |
|
なんです。酒2杯とかね、酒3杯、こういう茶飲み茶碗で飲んだんです。実家では怒られるんですけれども。ちゃんと彼は私の部屋のこた |
|
つみたいなのがありまして、私の座る位置はここだと。彼は、必ず会長さんの場所って決まってるんですよ。そのほかはん中村俊英が来 |
|
て、こっち側は、その時、誰かフリーが来るんですよ。彼は、5時になるとぴしっとね、いつも加賀野から自転車で来て。ところが、私は、 |
|
5時半頃帰ってくるんです。ちゃんと待ってるんですね、お茶など飲んで。どっちが俺の家の主人かわからないんだ。 |
岡澤 |
でもまあよかったですね、そういう方がいて・・・。どっちみち寿命というのは・・・。 |
大坪 |
その頃が一番ね、詩も書けたし、合評会もやりましたしね。一番はりきって・・・。・・・? で一生懸命書いたのが土台になって、あと何回か |
|
書き直ししたのが、なったんじゃないかな思います。 |
岡澤 |
すごくいい時間を暮らしたわけですよね。 |
大坪 |
そうですね。・・・・・・・・・・・・?そういう時代だったんですけれどね。 |
岡澤 |
どっちみち特異な…、特異といっても、非常にポピュラーな特異な詩人として、残る詩人…。 |
大坪 |
そうですね。 |
岡澤 |
当然ね、それこそ、私の好きなコウノカイコウさんなんかと…。そのあと、何回目かに入ってるわけでしょう、H氏賞にね。黒田三郎とか、 |
|
皆入っているわけですからね。 |
大坪 |
そう。その当時としては、30年代、40年代に書かれた詩としては、黒田三郎さんとか何かのように、非常にわかりやすくてね。 |
|
それで、じっくり読んでもね、何回も読んで自然に…。だから、そういう詩に味がある詩がいっぱい入ってますからね。小さなダイアモンドが |
|
いっぱいあるような感じなんですよね。 |
岡澤 |
女性の人を歌った詩にいいのがありますね。 |
大坪 |
ええ。 |
岡澤 |
こちらには採用されてませんけどね。 |
大坪 |
その人の見る目によっては、全然、皆、もうばっと手つけるような詩以外にね、ばらばらと読んでいくと、変なとこにぱっといいのがあるん |
|
ですよ。それは、全く編集者のずさんなとこなんですけどね。かえってそれが、結果的にはね、いいのと悪いのがたくさん並んでる方が、 |
|
いいのがばっと出るからいいんじゃないかっていう勝手な解釈なんですけどね。 |
岡澤 |
キリン書房さんが全集を出版するという・・・。 |
大坪 |
全集っておっしゃってたんですけどね。そのあと、キリン書房の連中と、それ以後は会わないもんですから、去年10月から。 |
岡澤 |
ああ、そうですか。 |
大坪 |
せっかく東京の思潮社から話があったもんですから。まあ奥さんと相談して、全国的に出た方が、彼のためにもなるし、また出身の地の |
|
盛岡の人たちにも読んでもらえば、共通の話題が出るからいいんじゃないかという話しで、一応思潮社にとりあえずお願いしようと…。 |
岡澤 |
やっぱり、結局詩の本となると思潮社ですからね。そういった点では…。 |
大坪 |
私も、年賀状は、あまり思潮社とかああいうのに出さないもんですから。 |
岡澤 |
ああ、そうですか。 |
大坪 |
あっちから今年たまたま来て。2枚もきたからね。それにぜひ今年は、村上昭夫の詩集を出したいから協力してくれって…。思潮社から |
|
出た本も、大分何版か出たんですね。 |
村上 |
そうですね。 |
大坪 |
ああ、そうですか。何か数回印税が入って・・・。 |
村上 |
はい、印税がね。 |
大坪 |
から、隠れたベストセラーで、読む人は読むんでしょうね。 |
岡澤 |
でしょうね。 |
大坪 |
はい。世代が変わると…。 |
岡澤 |
盛岡では、古本屋、2箇所、お得意っていうか、お茶飲みに行くんですけれども。一つのところではね、東京から引合いがあるそうです。 |
|
盛岡あたりだと地元だから「動物哀歌」の初版本が手に入るだろうと思って、ありませんか、ありませんかって聞かれたことあるんです |
|
けどね。 |
大坪 |
あの青い表紙のやつはね、貴重誌なんですよ。 |
岡澤 |
まあそんなことで、あれは、向こうから話が…。 |
大坪 |
大分前ですけどね、渋谷の詩の本専門の古本屋にちょっと寄ったんですね。たまたまあるかって聞いたらあります、 |
|
25万出せば…。いやー…。俺つくったのは、たった5、600円でつくったのにね。しかしこんな価値あるなんてね。お客さん買います |
|
かって言うから、いや、とんでもない話だって・・・・。 |
松見 |
じゃ、どうもありがとうございました。今後とも、ご協力お願いいたします。 |
|
|