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昭夫の訃報を電話できいた時、沢野さんは受話器を握ったなりで、ワァワァワァワァ、、童女のように泣いて |
泣いて中々泣きやまず、傍らの夫君を驚かせたという。 |
昭夫に会いたい、会いたいと念じつつ遂に念願を果たせなかった彼女の痛哭の働哭だった。 |
昭夫が死んで何か月かの後、私は昭夫詩碑の建立を思いたった。 |
募金の方法も岩手公園に建立した宮沢賢治の碑の、3人のメンバーの一人だった私にはほぼ自信があったし、 |
詩人クラブ関係の大方の賛同も得ていた。今は故人となったある人の協力で候補の石の確認に行き、大きさ、 |
形態を知り、寸法を計って詩碑たるべき石を決定した。 |
すべて順調に進行するかに見えたこの企画が、思いがけない暗礁に乗り上げて経費の目度が立たなくなった |
時は、もう引き返すべき段階ではなかった。 |
懊悩五夜、思いついたのが沢野さん、思い立ったら直ぐ上京した。沢野さんの決断は早かった。 |
「では費用一切は私が出しますから、宮さんはすべての仕事を引き受けて下さい。建設者名は二人の名を刻ん |
で下さい」 |
私はあわてた。 |
「それは私は反対です。私はあくまで陰の人です」 |
折角私が詩碑建立を思い立ったのは、ゆめ、私の名を刻みたいためではないのだから・・・・ |
名を入れる入れないのヤリトリがあって手間取ったが、ついに沢野さんだけの名を刻むことを納得してもらった。 |
見積もりは240万前後だったと思う。
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選詩は村野四郎「私をうらざるな」 |
書は草野心平の雄渾な筆致 |
軌道に乗った事業は原調に進行したJ |
さて次は建立場所の設定だった。私は初め動物の種類の多い岩山を想定していたが、山の中腹までの運搬が |
難事だという、では昭夫が療養したサナトリウムの案、或は昭夫の学んだ学校の校庭などと、とつおいつ迷って |
いた時「オラホでもいいよ」と言ったのは、現市立図書館長の小森一民さんだった。 |
「あっ、なーるほど、そうした考えもあったのだ。」そこは初めから詩碑の場と定められていたような館の |
奥庭だった。 |
除幕式は昭和50年4月30日だった。桜満開の晴れた日だった。 |
村野四郎氏夫人、同子息、伊藤信吉氏らも出席され、県内外の関係者も120、30人も集まって下さった。 |
植樹は何がいいかと相談があり、故人が生前好んだ白木蓮に私が土を寄せた。
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碑文を私が朗読し、出席できなかった沢野さんに代って、市への贈呈を私がした。 |
当時の市長は工藤厳氏だった。昭夫のお母さんへの花束贈呈も私がした。 |
こうして滞おりなく式は終了した。 |
併設した「昭夫展」にも人々は興味深かった。 |
指祈ればあれから十四年、年毎に重ねて来た「詩碑前の集い」である。白木蓮の花も数増し、 |
あの日出席の懐しい方々の幾人かは他界された。 |
昭夫の愛情をかく顕彰できたことに私は悔いはない。 |
(昭和64年記)
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村上昭夫と宮静枝
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盛岡市立図書館(村上昭夫詩碑)の案内図
<拡大写真> |
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今年も花見のシーズンがやって来た。 |
昭夫の好きだった「もくれん」は盛岡の桜の名所、高松の池に隣接する盛岡市立図書館にある記念碑の |
後ろに植樹されている。 |
今年は春の訪れが遅れており「もくれん」と「桜」が一緒に満開を迎えた。 |
残念ながら桜の花に吸収されたように見えました。 |
剪定が不足しているせいか?花がばらついて咲いていた。 |
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来年はどんな花を咲かせるのか。 |
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昭夫の「もくれん」
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撮影2012.4.29 |
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