太宰 治と三田 循司
浦田 敬三 岩手ゆかりの人びと より引用

 御元気ですか。
 遠い空から御伺いします
 無事、任地に着きました
 大いなる文学のために、
 死んで下さい。
 自分も死にます、
 この戦争のために。


 これは北海派遣××部隊三田循司から太宰治に送られた最後の便りで、太宰治の短篇「散華」に収められているものである。


 昭和18年5月29日山崎保代大佐指揮をとるアッツ島守備隊は全員玉砕と報じられた。
この中には郷土の方々が多数入ってり花巻出身の三田 循司もその一人で彼は東大国文科を卒業して、まもなく入隊した。
以下、太宰治の作品を紹介しながら、三田 循司の人となりにふれてみたい。

 「いま私の手許に、出征後の三田君からのお便りが4通ある。もう2、3通もらったような気がするのだけれども、私は、ひとから
もらった手紙を保存しておかない習慣なのでこの4通が机の引出しの中から出て来たのさえ不思議なくらいで、あとの2,3通は永遠に失うわれたものと、あきらめねばなるまい。(略)

 私がこの「散華」という小説に取りかかった意図は最後の一通を受け取ったときの感動を書きたかったのである。
それは北海派遣××部隊から発せられたお便りであって、受け取った時には、私はその××部隊こそ、アッツ島守備の尊い部隊だという事などは知る由も無いし、また、たとへアッツ島とは知っていても、その後の玉砕を予感できるわけは無いのであるから、私はその××部隊の名に接しても、格別おどろきはしなかった。
私は、三田君の葉書の文章に感動したのだ。

 御元気ですか。
 遠い空から御伺いします
 無事、任地に着きました
 大いなる文学のために、
 死んで下さい。
 自分も死にます、
 この戦争のために。

 死んで下さい、というその三田君の一言が私には、なんとも尊く、ありがたくうれしくて、たまらなかったのだ。
これこそは、日本一の男児でなければ言えない言葉だと思った。」
ここには、太宰治のいつわらざる心情が示されている。

 三田循司は県議をつとめた勇治氏を父として、花巻市坂本町に生まれる。
岩手中学、第二高等学校 (旧制) を経て東京大学国文科に入学、昭和15年太宰治を知る。

 東大在学中、同人誌「芥」を編集し、創刊号に〝風″同二号〜三号には〝水面″〝都島″〝高架″などの作品を発表したという。
これらの作品は、東大の先輩で評論家の山岸外史氏によって、三田循司遺稿集「北極星」(未発表)としてまとめられた。

 山岸外史氏は昭和19年8月19日、三田循司詩集編纂のため来県、同日午後4時から県公会堂で座談会を
開催と報じられている。
先年、山岸外史氏よりいただいた書信には、循司君のことについて20年近くまえに書いた「北極星」250枚ばかりは当時
発禁となり、その稿はそのまま悊君(循司実弟) に預けた形になっています。(略)とあり、早速、三田悊氏に照会したところ
〝兄の遺稿集の事ですがまだ出しておりません。何れ山岸さんと相談して何とかしたいと思っております。
なお本日山岸さんより来信があり、新潮に50枚ばかりのものを頼まれたので、兄の碑を建てに来花した時の事を
書くとの事です。″との返事をいただいた。

法名 芳勲院循誉義烈清居士 三田 循司の霊は、花巻市四日町の広隆寺に眠る。          
                                                                   (昭和50.2.13)

上記に関するハガキ
山岸外史より浦田敬三宛ハガキ
昭和37年12月?日
三田 悊より浦田敬三宛ハガキ
昭和37年12月15日
三田 悊より浦田敬三宛ハガキ
昭和42年11月8日