ブラジル国旗 ブラジル国章
                                     

   Report from Brasil
                                     
  ブラジル連邦共和国 Reoublica Federativa do Brasil
   通称ブラジル (漢字表記:伯刺西爾)
  人口 1億8967万人(2007年)  公用語 ポルトガル語

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昭和31年卒業時 現在(2009)
                           
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今回のReport from Brasil は

   
     景山 泰孝氏からです
             
新8回生 昭和31年卒

石桜同窓会HP委員会よりのワールドレポート情報提供依頼の手紙(2009.5.7発送)が5.25に届いたとの事。
  
(同窓会名簿記載住所から移転のため住所不定で日本では返送と考えられるが、時間をかけて探して頂いたブラジル当局に感謝)

手紙の内容は日本出発から現在の状況まで便箋5枚です。
  少し長くなりますが、本人の了解を得て報告します。

遠く離れて居るとは云え長年の故郷へのご無沙汰の無礼を改めてお詫び申し上げます。
  53年前の当時を色々思い出し人一倍懐かしく胸がしめつけられる思いです。

昭和36年12月4日に横浜を大阪商船あるぜんちん丸≠ナ出航し、12月25日パナマ運河を通つて翌年1月10日に到着、
  それから47年間一歩もブラジルから出ずに生き続ける事が出来ました。

1961年に東京農大の先輩7人が開拓を始めた。
 サンパウロ市からリオ市に向って70余粁地点最寄のジャカレイより北に15粁の何もない山の中に入り農場造りを始めました。
 生活のために野菜(トマト、インゲン等)を作り、鶏舎建設、果樹園造成等に頑張りました。
 お金も持たず、言葉も通じない何もない所に入って良く生きてこられたものです
 それから3年半して農場から6粁東の荒野(何もない)に15haの土地を求め、1965年4月に入植し百姓生活が始まりました。

それからが一見のん気でしたが、軍政時代の高インフレと戦い、現在46歳の長女を頭に1男5女の6人の子をもうけ、子供は今皆独立し、
  現在72歳の私と69歳の女房がやっと余生がおくれるかなあと思えるようになりました。


渡伯当時ブラジルはあまり良く知られておらず特に岩高卒業生が目を向けるところでなかったので1961年に日本を出てから
  岩高卒業生に誰もお 会いしておりません。
  岩高時代に一番キライだったのは受験勉強でした。
  ただ理科少年だったので科学部のなかで生物班、化学班では少し活発だったような気がします。

運動は陸上競技部に所属していましたが、県大会で20粁マラソンを走ったり、一関―盛岡間駅伝で当時の金ヶ崎―黒沢尻間を走り
  4人抜いて2人抜かれた記憶があります。

 忘れられないのが3年の夏、全国高等学校硬式野球夏期大会で同級生田中義男主将(捕手)卆いる我が岩高野球部が県大会で
  優勝し、北東北3県にも勝て甲子園に出場出来た事です。甲子園での初戦は強豪法政二高を破り第二戦で香川県の坂出商高に惜しくも
  破れましたが、 今でも忘れられない良い思い出です。甲子園の応援には学友のほとんとが行きましたが、私は大学受験のため仙台の
  予備校の夏期講習とやらにカンヅメとなり甲子園に行けなかったのはそれから54年たった今でも恨しく*Yれられません。


時が余りにもたちご存命の先生も難しいと思いますが、当時校長だった山中先生(ペルシャネコ)、教頭の遠藤先生(カンチュウ)
  数学の千葉先生 (ジイサン)、幾何の照井先生(クラス担当)、国語の渕澤先生(チャボ)、社会科のチャンチュー、歴史の
  古川ロッパ先生、生物の小山先生(イモ)、物 理の小笠原先生(デンスケ)、化学の小笠原(?)、地学の柏木先生、図画の
  小笠原アゴ先生等が忘れられません。


昨年2008年6月18日にはこちらではブラジル日本人移住100周年記念で大きなイベントが周年続きました。
 6月15日は伯国岩手県人会の創立50周年の祝いがあり県から達増知事が来られましたが6月14日に岩手宮城内陸地震があった
  ニュースが入り知事は50周年の祭典を目前にし急いで帰国しました。
  50年祭のために心血を注いで来た千田会長の気持ちを察
て余りあるものと感じました。
 6月15日サンパウロ市内の日伯文化福祉協会大講堂で祭典は無事盛大に行なわれました。
  知事の短い滞在の始めにリオ市にある第三代ブラジル移住公使杉村氏の墓参をされたのは最大の収穫でした。
  杉村公使は学友杉村礼司君の祖先で日本人のブラジル移民の道を道を開いた大恩人なのです。
 
  ブラジル岩手県人会創立50周年の日本からの慶祝団々長南部45代利昭様にもお会い出来、午後の祝賀会には農大の後輩にあたる
  南部美人の社長も銘酒を携えて同行され、私は心ゆくまでご馳走になりました。

 祝賀会では南部利昭公も6.7米の近きに座られて居り、世が世であれば恐れ多いことでした。

アッという間にそれから1年も経って終いましたが、私は今1965年に入植したままの自作地15haの中を輪作しながら道路、住宅、倉庫、
  使用人住宅、数種の亜熱帯果樹を主体にした果樹園、養魚池等を作り1970年代にやっと電気を引き、80年代に電話が引けて
  文化的な生活に近づきました。
  昭和32年に東京農大に入学して果樹園芸学常緑無果樹(ミカン類など)の勉強をして、ブラジル行きを夢見るようになり36年卒業と
  同年にブラジルに向いました。

 来て見て夢と現実はかなり違いましたが旺盛な好奇心がノスタルジヤに成り易いのをかなり救ってくれました。
 又度々経験させられた苦難は親から授かった丈夫な体と岩中、岩高時代の成長期に培う事が出来た精神力が救ってくれた事を思い
  感謝の気持ちで日々を過ごして居ります。


書くのが後先に成ってお詫びしなければ成りませんが、今は亡き姉が岩高旧校舎が出火焼失して終った事を知らせてきた事が
  ありましたが、友達とも文通を久しく止絶えさせて居り済まないと思いながらそのままに成って終いました。
  母校に大事が起こったときに早速かけつけて、その復興に微力ながら手をさしのべるのが卒業生の務めと思っておりましたが、
  今まで何一つなさず恥ずかしさで頭が上がりません。

私は今ブラジルに移民して頑張っている東京農大卒業生百数十名が集まって伯国東京農大会と云うのを30年前に立ち上げ、
  その役員の1人として微力を尽くして居ります。
  毎年7月の最終日曜には慰霊祭と親睦会を行なって居りますが、昨年の移民100年祭に続き大学と共催で将来の食料、エネルギー、
  環境について日本側から2人、ブラジルから2人の専門の先生に講演をしてもらいブラジル生まれで東京農大で学んできた留学生に
  通訳を してもらいシンポジュームを行う事に成りその準備に入ったところです。

そちらは梅雨に入りうっとしい日がしばらく続くと思いますが、1年の中で緑が一番活気のあるときですね。
  在学中当時校舎西側の二階から眺めた四季の岩手山、南昌山の姿は目の底に焼きついて消えることがありません。

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  景山先輩のご好意によりブラジルレポートを報告することが出来ました
  苦難を乗り越えて頑張っている先輩に敬意を表したいと思います。

  今後益々のご活躍とご健勝をご祈願申し上げます


                              この報告は2009.7.1に編者宛に届いた手紙をもとに作成しました。