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昭和20年代高松の池スケートリンク |
岩手山をバッックに
高松の池スケートリンク |
昭和30年代高松の池
スケートリンクでの競技風景 |
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■昭和29年、竹花国夫・宮野半四朗(新8回生 昭和31年卒業)により |
「スケートクラブ」を創設 |
■昭和31年、武田忠二・太田和夫 (新9回生 昭和32年卒業)により |
「スケート部」 に昇格 |
■昭和47年卒(新24回生)大川仁等を最後に休部状態 |
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クラブ創設者 |
スケート部昇格 |
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■昭和37年11月、太田和夫(新9回生 昭和31年卒業)が鬼柳隆雄(新13回生 昭和36年卒業)、 |
竹田孝(新14回生 昭和37年卒業)等々と協力し、 |
県高校選手権大会、国体等に入賞選手を輩出すべく、選手の指導強化を図るため「OB会」を設立。 |
■昭和37年2月、当時岩大付属中学校でスケートが上手な「杉江宏司」がいたので、岩手高校に入学する |
よう両親を説得、岩手高校にスカウトし選手強化を図る。 |
■また、当時岩手中学生の鈴木稔(新16回生 昭和39年卒業)、藤岡郁孝(新16回生 昭和39年卒業)、 |
佐藤直孝(新17回生 昭和40年卒業)、長瀬正志(新17回生 昭和40年卒業)、 |
佐々木一(新18回生 昭和41年卒業)、小笠原政司(新19回生 昭和42年卒業)等も高校入学と同時に入部 |
一応の選手強化のメドが付いた。 |
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■昭和37からの強化策として、当時明治大学スケート部に在籍していた |
藤原正紀(新13回生 昭和36年卒業)が |
夏季(松川)、冬季(外山)合宿に科学的な練習方法の導入を図った結果、 |
県高校選手権大会、インターハイ、国体において入賞、優勝するまでに |
選手強化が充実した。 |
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写真は昭和38年帯広国体5.000mで優勝したシーン(写真判定 左杉江) |
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■OB会の設立に併せ、選手強化を図り、会員の協力により、 |
昭和38年の県高校選手権大会で、3年生杉江宏司(新15回生)、2年生鈴木稔(新16回生)、 |
1年生長瀬正志、佐々木一(新17回生)等を擁し初の総合優勝し、39年、40年と連続優勝し3連覇 |
達成した。 |
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■また、昭和38年のインターハイ(帯広)で杉江宏司が5千m(4位)、 |
1万mでは惜しくも第2位入賞。その結果わが岩手高校がスピードスケート部門 |
で、総合第5位に入賞した。 |
引き続き同地で開催された昭和38年国体の高校5千mで悲願の |
全国優勝を達成。 |
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昭和40年国体(蓼科)
1.500m決勝先頭が杉江宏司
<拡大写真> |
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■OB会員から国体選手として、9名を輩出し国体等で大活躍した。 |
特に杉江宏司は国体7年連続出場、通算8回出場し、内3回優勝(帯広、箱根、日光) |
(箱根、日光国体は専修大学在学中)、大学在学中、冬季オリンピック候補選手に選出された。 |
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■今年(2011,年)はスピードスケート部創立55周年 |
来年(2012年)はOB会創立50周年になります。 |
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■OB会長(杉江宏司)を中心に会員相互の親睦を図るため、毎年2回のOB会には20名程の参加のもと、 |
ゴルフ及び懇親会を開催し、現役時代の辛い練習、日詰までの朝の練習や、松川、外山の合宿の苦労話 |
や近況報告等を語り友好を深めています。 |
■今後、多くのOB会員の参加を図るため情報収集に努め、各卒業年次の代表OBが連絡し近況を確認し、 |
親睦会に多くのOB会員が参加するよう周知を図るようにしている。 |
■現在、鬼柳隆雄会員(新13回生)は日本スケート連盟の公認審判員として県内の各種大会、全日本の |
各大会、国体の審判員として活躍しています。 |
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■鈴木稔会員(新16回生)は、東日本大震災による沿岸部の被災者や「神輿」仲間に対し救援物資の提供を |
して被災者を激励する活躍をした。 |
また、7月16日、17日の両日に仙台市で開催された、東北6県合同の「六魂祭」には、岩手県代表で |
出場し、「盛岡さんさ踊り」100名の踊り手の責任者として被災者を激励する活動をした。 |
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