昭和2年1月5日 |
岩手県東磐井郡大原町(現・大東町)に生まれる |
昭和14年(12歳) |
盛岡市にある岩手中学校(現・岩手中・高等学校)に入学 |
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昭和14年?岩手中学1年生 |
岩手中学時代 |
自宅付近で家族と |
岩手中学(昭和19.5.2 |
岩手中学時代学友と |
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岩手中学校 寄宿舎時代 |
岩手中学校5生
昭和19年?
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岩手中学校剣道部
昭和19年5年生の頃か |
岩手中学校剣道部 |
岩手中学校剣道部
昭和17年 3年生の頃か |
<拡大写真>
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昭和19年(17歳) |
学徒動員により7月17日より約1年間横浜市鶴見の軍需工場(日本鋳造鶴見工場)へ行く
川崎市の「紫雲寮」に寄宿 (岩手中学第15回生 勤労動員学徒の手記) |
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学徒動員時代
村上昭夫は後列右3番目 |
学徒動員時の服装
ゲートルを着用 |
学徒勤労動員(昭19年)
寄宿地鶴見にて |
鶴見工場での
作業風景 |
学徒勤労動員(昭19年)
皇居前での記念写真 |
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昭和20年3月(18歳) |
岩手中学校卒業
卒業後級友3人(山内賢一郎、古舘敏夫、浜田彪)とともに渡満し、旧満州国の官吏ななる
赴任したのはハルピン市のある賓江省の役所だった
しかしソ蓮軍の満州侵攻によりあっけなく失職、敗戦国難民としての無頼の生活「用心棒・御用
聞き・薬品・ブローカー・露天商・行商・砂糖製造・菓子つくり・家財処分の手数料稼ぎなど人殺し
以外はなんでもやって露命をつないだ |
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当時の満州の地図 |
赴任した浜江省公署 |
浜江省公署 |
ハルピン駅前 |
現在のハルピン駅 |
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昭和19年 |
秋、帰国実家に戻る 家族は昭夫がもうこの世にいないものとすっかり諦めていた
(実家 盛岡市加賀野中道27番地) |
昭和22年(20歳) |
盛岡郵便局事務員に採用される |
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昭和25年(23歳) |
春、結核発病 ベットが空かないために自宅療養
秋、岩手サナトリュウムに入院 |
昭和26年(24歳) |
2月、岩手サナトリウム内の大部屋(19人室)にはいる |
昭和28年(26歳) |
病気軽快となり岩手サナトリウム退院 |
昭和30年(28歳) |
盛岡郵便局郵政事務官を長期病気休職のため免職 |
昭和34年(32歳) |
仙台厚生病院に入院 |
昭和38年(36歳) |
仙台厚生病院を退院 |
昭和42年(41歳) |
寮友で俳句作家の昆ふさ子と結婚 プロポーズ意志表示詩 |
6月30日 |
再度国立盛岡寮養所に入院 |
10月19日 |
『動物哀歌』によって第8回土井晩翠賞受賞 |
11月14日
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受賞式には、父、ふさ子、和夫が代理出席 |
晩翠賞受賞祝賀会、『動物哀歌』出版記念会が盛岡市ニューヤマトで開かれる |
父、国立寮養所の石川義志、弟の貞夫、成夫に付添われて出席 |
席上、「肺病が癒ったら詩を書くことをやめる」と語る |
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昭和42/11/14 晩翠賞受賞 受賞祝賀会と出版記念会
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昭和43年(42歳)
3月26日 |
H氏賞 鈴木志郎康『罐製同棲又は陥穽への逃走』と『動物哀歌』に決定 |
その旨現代詩人会から連絡があり受諾 |
3月29日 |
同会の定例理事会で受賞者発表 |
5月10日 |
東京新宿の紀伊国屋ホールで、第18回H氏受賞記念「5月の詩祭」が開かれる
はじめ医師の許可を得て上京出席の予定だったが欠席し
代理に母、弟・和夫、妹・睦子が出席、弟・和夫が代って賞を受ける |
昭和43年7月 |
おそらく村上昭夫最後の投稿作品「捨てる」(「無限」24号 昭和43年7月)
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9月末 |
最後となってしまった見舞いの時、兄・昭夫は弟の私の前で初めて涙を流した。 |
「兄ちゃんはもうだめだ・・・」と言ったと思う。 |
(中略) |
その時は覗いても見なかったのだが、枕元にあった日記帳にはインクのなくなった |
万年筆のペンの跡が同じ行に重なって書き込まれていた。 |
目も見えなくなっていた兄・昭夫。 |
10月10日 |
急変の知らせに駆けつけた父の前には、手を胸に組み合掌の姿の |
息子・昭夫の姿があったという |
その瞬間には立ち会えなかったのだが、遅れて行った私の目に飛び込んできたの |
はあの日記帳だった。 |
最期のペン跡だけのページには、「村上昭夫、頑張った」の文字がかすかに |
読み取れていた。 |
(後略) |
村上昭夫資料室 末弟成夫による兄の回想より引用
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10月10日 |
急変の知らせで、父をはじめ家族が駆けつけたが、すでに会話不能
ただ顔でうなずくだけだった。手を胸に組み合掌の姿をしていた。 |
10月11日 |
午前6時57分、国立盛岡寮養所西下病棟2号室で、肺結核と肺性心の合併症、および
永い闘病生活のため全身衰弱し永眠 |
10月13日 |
盛岡市青山寺で告別式
墓所は岩手郡滝沢村の穴口公葬地 |
昭和44年 1月
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「歴程」124号で村上昭夫追悼特集 |
12月 |
「皿」49号で村上昭夫追悼特集号として刊行 |
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昭和50年 4月29日 |
盛岡市立図書館わきに詩碑建立・序幕
作品<私をうらぎるな>(活字)<選・村野四郎、碑名・草野心平書
設計・大宮政郎。 沢野起美子の尽力による。 |
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村上昭夫の年譜は(日本現代詩歌文学館発行「没後30年村上昭夫『動物』への道より一部引用)
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◆ 詩 碑 |
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● 場所ー盛岡市高松1丁目 |
● 詩文ー私をうらぎるな |
盛岡市立図書館構内 |
選ー村野四郎 |
● 建立ー昭和50年4月29日 |
書ー草野心平 |
● 高さ ー1米20糎 |
● 設計ー大宮政郎 |
● 横幅ー2米40糎 |
● 施工ー中沢工務店、高林石材店 |
● 台座ー4×4米 高さ20糎 |
● 建立者ー沢野起美子 |
村上昭夫詩碑建立の影の功労者に宮静枝さんがいた 昭夫詩碑の周辺 |
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<拡大写真> |
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村上昭夫 詩碑 |
村上昭夫 詩文「私をうらぎるな」 |
詩 碑 書 |
詩碑案内板 |
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<拡大写真> |
村上昭夫の詩碑は、盛岡市立図書館構内と陸前高田市役所・下矢作多目的研修センター構内の2ケ所しかない |
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昭和42年
Laの会発行 |
昭和43年
思潮社発行 |
昭和47年
みちのく社発行 |
昭和58年
トリョーコム発行 |
平成5年
動物哀歌の会発行 |
平成11年
思潮社発行 |
平成11年
動物哀歌の会発行 |
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<拡大写真> |
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足澤 至 |
旧制岩手中学校 15回生(村上昭夫同級生) |
岡澤 敏男 |
旧制岩手中学校 15回生(村上昭夫同級生) |
西在家 寛 |
旧制岩手中学校 18回生 (村上昭夫同窓生) |
横田 英司 |
岩手高等学校 11回生(村上昭夫 後輩) |
佐々木甚一 |
岩手高等学校 11回生(村上昭夫 後輩) |
高橋 克彦 |
岩手高等学校 19回生(村上昭夫 後輩) |
中村 重夫 |
岩手高等学校 22回生(村上昭夫 後輩) |
小野寺 苓 |
村上昭夫旧制岩手中学校の恩師牟岐喆雄
先生の令嬢(筆名北川れい) |
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「動物哀歌」の詩人 村上昭夫の肖像
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石桜新聞・石桜同窓会報 村上昭夫 関連記事
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金子正画伯のイメージ絵 |
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