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追 想 |
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石桜同窓会からのご依頼で私の半生を綴ることになりました。 |
私は昭和3年盛岡の仙北町で生まれました。 |
子供時代、明治橋から先へ行くことは、八幡さんと桜山さんのお祭り以外は殆どなく、それも |
「お好み焼き」を食べるチャンスがあったからでした。今でも盛岡へ帰る度に「お好み焼き」を |
探し求めます。 |
日米開戦前の昭和16年4月、岩手中学校に入学、卒業まで山中順三先生が担任で、 |
ラグビー部に所属しました。部活で一緒だった同級生の佐藤進君が、盛岡高等工専から日大工学部に |
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鷹觜 達衛氏 |
移り、全日本代表遵手の1人に選ばれたことは本当に嬉しいことでした。 |
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昭和19年中学4年の時、川崎の軍需工場こ動員されました。 |
しかし翌年の4月15日、B29による空襲こより工場も寮も灰燼に帰し、全員盛岡に戻りました。 |
岩手医専に合格していましたので、8月15日の終戦の詔勅は医専の校庭で聞きました。 |
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岩手病院 |
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当時医学専門学校はマッカーサー司令部の命令により、すべて医大になるか廃止されるかの運命に |
なり、その審査に備えて、古い建物だった校舎を綺麗こ見てくれることを願い、必死に壁のペンキ塗りをやりました。 |
ペンキ塗りをやりました。 |
その後幾つかの医専か廃止させられた中で、岩手医専は予科3年のついた岩手医科大学と |
なりました。私はこのチャンスに、予科3年に編入させて頂きました。 |
予科卒業を前にして、医学部に進むことを諦め、カトリックの司祭になるべく、上智大学文学部こ |
編入させて頂き、途中からローマのウルバーノ大学に入学し、神学部卒業の前年、カトリック司祭、 |
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岩手医大校章 |
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Maria Montessri |