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  岩手中・高校には、かって最強の黄金時代を築いた体操部があった。
  
  戦争で一時中断していた体操部は県体操協会の結成された昭和21年に、復活
  第一回大会がもたれ、これに出場すべく当時体育教師前沢 肇先生の指導のもとに
  鳴海正人(旧18回生)、三浦友義(新1回生)達が、あの薄暗い裸電球の体操場
    (旧剣道場)で始められた。

  なにしろや気充分でも満足な器具は一つもなく、総て暗中模索の手作りに頼るし
     かなかった。
  流木の丸太に藤の蔓で作ったポメルをはめ込んでの鞍馬、木製椅子の部分の輪を
  削って作った吊輪、建具大工さんに作ってもらった平行棒、だいぶ後に
  小川長春館の木製平行棒を購入してもらい、喜びのあまりわれを忘れて、来る日
  来る日も来る日も練習に打ち込み、脇の下や向こう傷のあざが絶えなかったこと
     等が思い出される。

  再三にわたる学校への願いで、体操場に鉄棒固定の床上金
 具取り付けが許可されたものの、天井が低く車輪、宙返り
 の練習がままならぬため、無断で梁を切り落としりした事
 も今では、楽しい語り草の一つになっている。

 また徐々にあがる競技成績に学校当局も理解を示してくれ
  性能の良い平行棒を買っていただくことになるが、とても
 高価な鞍馬には手が届かず、夏休みを利用して部員全員
 甲子園予選の行われる市営球場でアイスキャンデー売りの
 アルバイトをして貯めたお金で鞍馬を購入、技術的なもの
 は勿論のこと、部員の団結と体操に対する情熱は、いやが
   上にも向上した。
体操場 鉄棒の上の梁
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  今日のようにテレビ、ビデオ等での技術習得はできず、本間茂雄の「鉄棒運動」
  唯一頼りになる本であった。
  従って中央で開催される全日本選手権大会とか早稲田大、日体大の合宿所見学に
  夜行列車で9時間もかけて上京し、日曜日の夜行で帰ってくるという強行軍を
  度々決行し、それでも1日として学校を休むようなことはなかった。

  施設、設備の充分でない体操場で、先生と生徒が一体となり、楽しい中にも血の
  滲むような練習が効を奏して、数々の栄光、戦績を残した体操部は、数ある
  運動部の中でも岩手高校のお家芸に属する種目である。

  高校総体では、昭和23、24,27、32,33,34、35、36、37、38、40
  44年度の12回の優勝を成し遂げ、それぞれインターハイに駒を進めている。
  県内大会、東北大会の上位入賞は枚挙に暇がないがインターハイ、国体での
    主なる成績をあげると次の様になる。

   ●21年国体(京都) 個人総合9位 鳴海正人
   ●22年国体(石川) 跳馬  4位 鳴海正人
     ○26年ヘルシンキオリンピック 予選出場 鳴海正人
   ●25年インターハイ(神奈川)
              個人総合6位 小林陵二
              徒手  1位 小林陵二
   ●25年国体(愛知)
              団体総合3位 小林陵二、斉藤勉
              平行棒 1位 鉄棒  4位 小林陵二
              跳馬  3位 平行棒 6位 斉藤勉
   ●26年インターハイ(茨城)
              跳馬  3位 村上昇
   ●26年国体(広島)
              団体総合7位 村上昇
   ●27年インターハイ(京都)
              個人総合10位 村上昇
              跳馬    4位 村上昇
     ○メルボリンオリンピック 予選出場 村上昇
   ●28年インターハイ(埼玉)
            タンブリング5位 遠藤政二
   ●35年インターハイ(長崎)
                鞍馬7位 五日市享児(規定1位)
   ●36年インターハイ(神奈川)
                個人総合11位 米沢正道
                鞍馬    2位 米沢正道
              インデアンリラブ3位 菊池康弥
   ●36年国体(秋田)
                  団体総合8位 米沢正道 佐々木健雄
                個人総合6位 米沢正道
                  跳馬  2位、鉄棒・鞍馬3位 米沢正道
   ●45年国体(岩手)
                団体総合9位 松井保憲、細川文男
 

  岩手中・高校体操部卒業生が岩手県体操協会の会長、副会長、理事長
  事務局長等県体操協会の重鎮として県体操界のリーダーとして活躍している。

                 (石桜70年誌「わが校のお家芸と自在」足澤至(旧15回生)より引用)

  ◆ 岩手中・高校の栄光の体操部




旧校舎体操場 昭和16年秋 タンブリン出場者 昭和17年1月 体操部一同
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昭和27年10月 岩手中・高校
運動会でのデモストレヘション

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■ 機敏で器用な生徒が運動会に、みんなの前で演技をして見せる
  ぐらいのものであった体操が、県内で競技会形式が取り入られ
  大会が初めて開催されたのは昭和14年である。

■ 昭和15年には第2回県下中学校体操競技が開かれ、岩手師範
  参学校、盛岡中学校の加選手に混じって岩手中学校からは
  鳴海凱里(旧制11回生)が出場、予選を堂々と勝ち抜いて
    明治神宮大会に出場した。

    ■ 昭和17年を最後に戦争で体操競技は中断

    ■ 昭和21年10月に、盛岡高女体育館で復活第1回県下中学校体操競技大会が開かれた。
      これに出場すべく鳴海正人(旧18回生)、三浦友義(新1回生)達があの薄暗い)
      裸電球の体操場(旧剣道場で練習が始められた。

    ■ 昭和22年の競技会は9月に盛岡中学体育館で開かれ、男子団体はは盛岡中学が
      岩手中学校再度の挑戦を退けて 2連勝した。
 
      個人2位に入った鳴海正人(旧18回生)を中心とする岩手中学校の進境めざましく
      いつの日かこの順位は逆転しそうな気配が濃厚になった。
  ◆ 岩手中・高校の栄光の体操部黄金時代

    ■ 昭和22年11月1日に開幕した第2回国体は石川県金沢市を中心に開催され、岩手県から中学校男、女の機械体操
      と一般男子の団体徒手に出場した。


昭和21年9月15日
足澤 至(旧15回生)の演技

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  岩手中学校からは鳴海正人(旧18回生)、吉川孝正(新2回生)が参加、15位入賞。
  一般男子の団体徒手は盛岡体操クラブが出場し5位入賞、その中に足澤至(旧15回生)
  がいた。

■ 昭和23年、第3回国体(福岡県)には高校男子はついに盛岡一校を追い抜いた岩手高校
  が主力となってメンバーを編成。
  鳴海正人(旧18回生)、三浦友義(新1回生)、吉川孝正(新2回生)が参加、奮闘。

■ 昭和24年、県民体育大会は、この年9月に第1回大会がひらかれ、高校男子は岩手高の
  吉川孝正が個人総合優勝し、斉藤勉、四戸孝丸、中村孝ら岩手高勢が全種目を独占、
  盛岡高に代って王座につく。

  第4回国体(東京都)高校男子は岩手高校の吉川孝正、斉藤勉(新3回生)が出場

      ■ 昭和25年、この年は高校男子陣の飛躍が目立つ年であった。この立役者は岩手高の小林陵二であり、斉藤勉らで
      あった。

特に小林の進境ぶりは驚異といえるものであった。
斉藤らをまたたく間に追い越し、各種目に平均した強さを誇るように
なった数多くの競技会をこなすようになってからは演技に幅も出
てきた。一見ホッソリした体格だが、演技の要所をとらえたカンの
良さ、柔軟なからだをいっぱいに駆使した表現力の豊かさ など、
わずか1年にも満たない努力で引き出された。同校の先輩であり、
監督である足澤至らの適切な助言があったのはもちろんである。

小林は春の県高校総体の個人優勝、県民体育大会でも鉄棒、とび箱、
平行棒、徒手の全種目を制した。
そして東北大会でも斉藤勉らと組んで団体優勝するとともに個人総合
2位、種目別では、徒手と平行棒に優勝、つり輪が2位とび箱で3位を
占めた。
小林陵二 昭和25年平行棒の小林陵二
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 斉藤勉もこれに続き個人総合3位、種目別にはとび箱で優勝、徒手と平行棒は3位となった。
 また、一般男子も鳴海、四戸らが頑張り、、団体総合は3位鳴海が個人総合5位、岩手高OB
 石桜クラブが日向幸らの顔ぶれで2位を獲得した。

■ 昭和26年、全国高校選手権で個人の部で出た村上昇は得意の鞍馬で健闘よく3位に食い込んだ。

■ 昭和27年、岩手高(村上昇、佐々木靖、小林隆、高橋均)は京都でおこなわれた全国高校選手権
  で10位、村上昇個人総合で10位に入った。
  団体は73チーム、個人550人が出場。
  村上昇は卒業後、伝統ある早大体操部に入った。しにせを誇った早大もこのころから部員不足に
  泣いていた時期で、入学した村上はいきなりレギュラーに抜擢された。
斉藤 勉
<拡大写真>   在学中の全日本学生選手権は団体の年度別で2,3,4,4位の成績、3年からは副主将をつと


早大時代の村上昇
 め、メルボルンオリンピックの代表選考会にも出場した。

 国体は、一般男子は盛岡一、盛岡商、岩手高の三校OBが仲良く手を握り合い、桑島博、
 渡辺満夫太田利彦、吉川明夫(岩手高)、吉田仁志、吉田治夫、長岡隆一というメンバーで
 山形国体操に出場。規定25.8点、自由26.3点、トータル52.1点で堂々と5位に食い込んだ。

■ 昭和28年、29年(中略)
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米沢正道





五日市享児

■ 昭和30年以降の第一線選手の岩手高関係は、五日市享児
  阿部光昭、菊池軍次、米沢正道、佐々木健雄、岡田睦男
  木村昭三、根本鶴二、館沢博明、高野洋祐らがいる。

  五日市享児が33年の全国高校選手権、国体などで活躍さらに
  日体大進学後も同大第一線選手として頑張った。
  特に日本選手が不得意とするあん馬に新境地を開き、東京オリン
  ピックの最終候補になった。

  五日市に続く者としては、35、36年に大活躍した米沢正道が
  いた。
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     米沢は五日市と同様、2年連続の県下高校チャンピオン。
     36年には夏の全国高校選手権で跳馬に2位を占め、スケールの大きな演技は将来の大物といわれた。
     同年、佐々木健、岡田睦男らと組んで秋田国体に出場、規定し好調に168.1点で6位に食い込んでいたが
       自由で失敗、162.60点トータル330.75点で8位に落ちた。
     卒業後東京教育大学に進み、全日本学生選手権で2位に入った。

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岩手日報編「岩手のスポーツ人」より一部引用しました
   石桜同窓会顕彰事業 「栄光の体操部」の編集作成に「石桜体操クラブ」諸氏を始め多くの関係者のご協力を頂きました。
   厚く御礼申し上げます。