「栄光の体操部」は足澤 至先生の実筆




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  ◆ 体操競技の歴史

  ■体操は古代オリンピックの種目のひとつでした。
   その頃は、ロープ登りや棒高跳など現在の陸上競技や他の種目も含まれていた。

   現代の体操競技の基となるものが誕生したのはドイツと言われている。

   1811年、ナポレオン戦争に敗れたドイツ全体が沈滞していた時、体育教師の「ヤーン」が少年達を鍛え励ますすため
   ベルリン郊外のハーゼンハイデに野外体操場を造りました。
   木馬、平行棒、水平棒というような器機が使われ、現代の体操競技の器機の原型になったと言われている。

   1881年7月、器機体操を普及、発展させようとベルギー、オランダ、フランス、イタリアの代表がベルギーの
   リュージュに集まり、組織を創りました。
   ここで結成されたのが国際協約を作成した連合体で、現在の国際体操連盟
                             (FIG=Federation International de Gymnastics)の母体となっている。



  ◆ 日本の体操競技の歴史

  ■1830年(天保元年)頃、高島秋帆により藩の新兵訓練として器械体操が導入されたのが、日本の体操のはじまりです。
   その後、徴兵令施行により日本軍の新兵訓練こも採用されたが、入隊後の訓練期間が惜しいと.学校教育にも器械体操
   が採用されるようになりました。

   1930年、全日本体操連盟が創立される。(現在の財団法人日本体操協会)

   1932年、ロサンゼルス五輪初参加するも、成績は団体5チーム中5位で、世界との差をまざまざと見せつけられた大会
   となりましたが、これを機に国際大会への参加も相次ぎ、学生スポニッとして徐々に盛り上がりを見せるように
   なりました


  ◆ 岩手の体操競技の歴史

  ■ 大正8年ごろまでは軍隊体操一色だった。これを改めたのが、東京高師の体育科を卒業したパリパリの青年教師、
    小山長助が岩手師範に着任してからである。小山がちょうど来県した年、大正9年に加藤昌得が岩手師範に入学、
    小山の豊富なスポーツの知識と理論に引きずり込まれる。
    小山は「岩手の体操は、外の県からみると10年は遅れている」と直ちに改革に着手、たいそうだけでなく、陸上競技
    など新しい競技の紹介にも努め、岩手県スポーツ界の発展に大きな足跡を残した。

    昭和5年に盛岡高女が加藤のお声かがりで部を結成したものの、実質的に活動し出したのは昭和10年頃である。

    そして昭和10年に加藤らが奔走して岩手県体育協会がを創設、これが県下各地への普及を早める原因になった。

    昭和15年、第2回岩手県中等学校体操競技大会が開催され岩手師範、盛岡中学、岩手中学(鳴海凱里旧制11回生)
    の混成軍が出場

    昭和17年頃、戦争で一時中断

    消滅の形になっていた岩手県体操協会が昭和21年、盛岡知友学の教諭だった加藤昌得の提唱で復活、加藤が会長に
    おさまり理事長に岩手中学教諭の戸嶋正夫が就任した。

    当時もっとも重要だったことは若手OBが出身校にこだわらず1本にまとまって県体操界の復活に努力したことである。
    その中に岩手中学出の足澤至(旧15回生)がいた。


  ◆ 岩手中・高校の栄光の体操部の始まり
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