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建学の精神
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旧制岩手中学校は大正15年(1926)2月11日に創立された。 |
創立の動機は青雲の志から津田塾に学んだ創立者三田 義正翁が、意志薄弱な学生を |
見て剛健な精神と強靭な身体の鍛錬を主とする教育論からの発想であり、企業でも国家に |
おいても、その運命を支配する要因は人材なりとの哲学から人材養成の殿堂設立に夢を賭 |
けたという。 |
これらの理想を具体化するための中心となったのが鈴木 宅苗初代校長である。 |
知識の詰め込みと試験による評価のみに終始して生徒の貴重な潜在能力を殺して |
しまうことを 恐れ教室における授業の他に「体育デー」や「勤労デー」「遠足」などの多彩な |
内容が年を通じて数多く催され、それらの実践のなかで生徒の人格を高めようしする幅の広い |
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教育が行われた |
とくにスポーツとしての「クロスカントリー」や「ラクビー」の採用は県下の中学校でも異彩を |
放った。昭和2年(1927)には、制定されたばかりの校旗を先頭に全職員・生徒200余名が岩手山 |
登山を決行。この岩手山頂校旗樹立に象徴されるのは自分たちの手で伝統を築き上げようとする、 |
創成期の岩手中学校にみなぎっていた旺盛な気概である。 |
(石桜70年誌より引用) |
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岩手県に初めてラクビーか導入されたのは岩手中学校である |
昭和2年(1927) |
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昭和2年3月31日、岩手中学校創立2年目に日本体育会体操学校(現日体大)出の広嶋英雄先生が |
赴任。学生時代にラクビーをした経験がなかったが、当時の校長鈴木卓苗が「独立独歩のできる |
たくましい青年を育てる」という教育方針を立てていた。広嶋先生は、その趣旨にのっとってラク |
ビーを取り上げ、ルールブックや解説書などをわざわざ東京から取り寄せて、独学でラクビーの知 |
識を覚えこんでしまった。 |
広嶋先生は特に「日本は武芸によって高潔な武士道が養われ、イギリスではラクビーによって |
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フェアブレーを重んじる紳士が作られる。 |
ラクビーのもつ最も男性にふさわしい |
スポーツとしての自制と修養を学べ」 |
と説いた。 |
こうして岩手中学校では10個のラクビー |
ボールを購入して体育の正課として採用 |
された。
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昭和2年4月5日を期して、岩手公園 |
グランドでラクビー部の発会式を上げた。 |
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鈴木 卓苗校長 |
広嶋 英雄先生 |
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岩手県で初めてのラクビーの試合は ? 岩手中学校である |
昭和3年(1928) |
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昭和3年5月5日に岩手公園グランドで学級対抗試合を催した。 |
この試合が岩手県で初めての試合である。 |
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岩手公園グランドでの試合風景 |
昭和3年3月2日 雪中のスクラム |
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この年に、岩手中学校にやや遅れたが岩手医専(岩手医大)にもラクビーを取り入れられた。 |
盛岡中学(現盛岡一高)にラクビー部が誕生したのもこの年である。 |
昭和3年10月29日 岩手県最初の記念すべき対抗試合 |
岩手医専と盛岡中学が岩手公園広場で対戦した。 |
レェフリーは岩手中学校の広嶋英雄先生。 |
試合結果は岩手医専が6対3で勝利した。 |
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岩手中学校の初めての対外試合 |
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この2年間、岩手中学校は隠忍自重していたが、ようやく腰を上げて盛岡中学と対抗戦を行う。 |
この試合は岩手中学創立3周年を記念して行われた。(試合の様子とメンバーは校誌「石桜」第12号参照) |
昭和4年11月30日、盛岡中学グランドで午後2時キックオフ、初陣ながら、さすが岩手中学校は |
しにせの貫禄を示し、15対3で快勝し、早くも校技ラクビーの伝統を打ち立てる。 |
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※ 岩手中学フルバック戸嶋正夫談 |
競技のスタート間もないころだったからルールに精通している者は少なく、ファイト |
むき出しにして戦い、ボールそっちのけあちらこちらで格闘が演じられた。 |
レフリーはボールの行方を追って笛を吹くだけで精一杯。今のアメリカンフット |
ボールのようだった。 |
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翌年から昭和18年まで盛岡中学と春と秋に定期戦を続け良きライバル校として親交を深める。 |
定期戦の最後は昭和18年春、15対0で岩手中学の勝利。 |
両校の対戦は26回を数え |
岩手中学校の14勝7敗5引き分け |
点数は、岩手中学校240点 盛岡中学126点 |
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昭和はじめころのラガースタイル(盛中グランド) |
昭和4年2月28日 「石桜」第9号より 雪中スクラム |
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<拡大写真> |
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岩手中学校 初めての県外遠征 初めての秋田工業と対戦 |
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旧制1回生 |
昭和5年11月18日 盛岡中学との定期戦 14対14で引き分ける。 |
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以後毎年春、秋に定期戦を持つようになった。 |
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盛岡中学交友会雑誌に |
「医専に常勝、敵は岩手中学なり、岩中の猛攻抑えられず、3年連続岩中に
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勝てず。 とある |
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初めての秋田工業の対戦 |
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この5日後、岩手中学校は、実力岩手県一の肩書きを引っさげて初の県外遠征として秋田県に |
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出かけた。秋田鉱山専門学校主催の第2回近県ラクビー大会に出場するためである。 |
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会場は手形練兵場で珍しく芝生のグランドだった。 |
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試合のもようを「石桜」から・・・・ |
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「石桜」第21号 昭和5年8月15日発行 「秋田工業戦」 「ラクビー部」 |
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「天候風強く、みぞれはげしく、冷気甚だしく、身を氷らす如し。グランドは水溜り多く |
泥海靴(くつ)を埋むの悪コンデション。10時、秋田工先蹴、岩中、西側に陣す」 |
すなわち風上に立ったが、雨のうえ日本海から吹きつける風、さらにグランドは足首まで水に |
つかって岩中フィフテーィンはすっかり縮み上がってしまった。 |
秋田工は手配よく全員が手袋をして出場、風下にもめげず、フォワードの強い押しでジワジワと |
攻めつけ、前半3トライを先行した。 |
岩手中学は、後半激しく追い込みをかけたが、右センター川畑がケイレンを起こして退場 |
秋田工の猛攻をやっとささえたものの0対9で惜敗した。 だがなかなかの健闘である。 |
岩手中学のメンバー中、石井は日大に進み、のち日大監督、小保内は軟式庭球でも有名。 |
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秋田遠征のメンバー |
昭和5年 秋田遠征から帰った岩中ラガー
中列右戸嶋 中 石井 |
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